加古川線あれこれ(11)

別府鉄道・旧駅舎(1)

野口線(野口ー別府港間 3.7キロ)。

大正10年開業、昭和59年廃止。野口、藤原製作所前、円長寺、坂井、別府口、別府港の6駅があった。

右写真は上から 円長寺駅、藤原製作所前駅、さかい駅跡。下は別府口駅、さかい駅、藤原製作所前駅の往時の姿。

山陽本線あれこれ(4)

【須磨~垂水間】 は六甲山系が海岸にまで迫り、須磨浦公園を削って無理やりに造った狭い中を海側から「山陽本線・電車線」、「山陽本線・列車線」、「国道2号線」、「山陽電鉄」と階段状に並走し、目の前は瀬戸内海。そして淡路島を望む如何にも神戸らしい景勝の地です。
電車線の快速は113系湘南型が主役で走り、普通は西明石まで103系や旧型の72系も使われていました。一番山側の山陽電鉄には須磨浦公園駅まで阪急、阪神も梅田から乗り入れていました。

写真下は宮崎からの夜行急行「日南」。編成の半数は寝台車でしたが、グリ~ン車や普通車も4両連結されていました。特に普通車はかっての特急用一方向き座席車・スハ44が使用されていたため、絶大な人気がありました。(昭和49年、須磨~塩屋間・上り線)

写真上は須磨浦特有の松林を走る往年の電車特急「富士」。新幹線開通前の山陽本線は広島まで電化され、「つばめ」、「富士」、「うずしお」の3往復が電車特急として広島や宇野まで直通していました。パーラーカー付きの151系12両編成でした。(昭和39年、須磨~塩屋間、国道2号線越し)

■スタッフ注:この区間は白砂青松、山陽本線を代表する見事な眺めでしたが、無残にも海岸線は埋め立てられ、もっともっと豊かだった松林も、国道拡幅や線路増で、須磨浦公園と同様に西方の舞子公園までも削られました。当時は六甲山を削り、海を埋め立てる神戸市・原口市長のスタイルが「株式会社・神戸」と褒めそやされる高度成長期だったため、何の議論も起こりませんでしたが、自然景観保護が叫ばれる現在なら如何でしたでしょうか。今昔の感があります。

加古川線あれこれ(10)

旧国鉄・北条線

栗生~北条間 13・6Kmを約20分で結ぶ。播州北部の小野市、加西市を走る。

昭和60年からは第三セクターの北条鉄道として運行している。この鉄道ではボランティア駅長が活躍し、現在33人がその熱意で小さなローカル線を支えている。

別稿「旧陸軍・加古川飛行場の記憶」で資料提供を頂いている、上谷昭夫氏もそのお一人です。

今日ものどかな田園風景の中を走っています。法華山一乗寺の羅漢さんは有名。支部HPのブログでお馴染みの松重輝夫さん(高7回)の世界ですね。

山陽本線あれこれ(3)


今回は「急行列車」(準急からの格上げ急行を含む)です。かって加古川駅に停車していた列車もあります。写真は昭和39年、加古川駅下り線に停車中の「準急・鷲羽」です。昭和41年から急行に格上げされ、最盛期には1日11往復も運転されていました。きっとお馴染みだった記憶がおありでしょう。

【急行】
つくし     大阪ー博多 一般形
はやとも  名古屋ー博多 475系
玄海     名古屋ー博多 475系
関門     大阪ー下関 165系
ながと    新大阪ー下関 153系
びんご(準急)  大阪ー三原 153系
とも       大阪ー三原 153系
宮島     大阪ー広島 153系
安芸     大阪ー呉 153系
だいせん   京都ー大社 キハ58系
おき      京都ー出雲市 キハ58系

鷲羽(準急)    大阪ー宇野 153系
但馬(準急)    大阪ー浜坂・鳥取 キハ58系 播但線経由
みささ(準急)   大阪ー上井 キハ58系 姫新線経由
かいけ(準急)  大阪ー米子 キハ58系 姫新線経由
伯耆        大阪ー米子 キハ58系 姫新線経由
みまさか(準急) 大阪ー新見 キハ58系 姫新線経由
やまのゆ     京都ー中国勝山 キハ58系 姫新線経由

霧島        東京ー鹿児島 一般形
桜島        東京ー西鹿児島 一般形
さつま       名古屋ー西鹿児島 一般形
しろやま      新大阪ー西鹿児島 一般形
屋久島      新大阪ー西鹿児島 一般形
阿蘇        名古屋ー熊本 一般形
天草        京都ー熊本 一般形
ひのくに      新大阪ー熊本 一派系
海星        新大阪ー博多 一般形
高千穂       東京ー西鹿児島 一般形
日向        京都ー都城 一般形
夕月        新大阪ー宮崎 一般形
日南        大阪ー宮崎 一般形
くにさき      大阪ー大分 14系

雲仙        東京ー長崎 一般形
玄海        京都ー長崎 一般形
西海        東京ー佐世保 一般形
平戸        大阪ー佐世保 一般形
音戸        大阪ー下関 一般形
ななうら(準急)  京都ー広島 一般形
瀬戸        東京ー宇野 一般形
さぬき       東京ー宇野 一般形
銀河        東京ー姫路 一般形

山陽本線あれこれ(2)


皆さん お馴染み深いかっての「特急」「急行」列車を列記しました。どれだけ覚えていますか。往時を思い出してみてください。

【特急】 ほとんどは昭和50年3月に廃止されました。

かもめ   京都ー長崎・宮崎 キハ80系
みどり   新大阪ー熊本・大分 キハ80系
うずしお  新大阪ー宇野 151系
つばめ   新大阪ー博多 151系
はと    新大阪ー博多 151系
しおじ   新大阪ー下関 151系

ゆうなぎ  新大阪ー宇野 151系
いそかぜ  大阪ー宮崎 キハ80系
しおかぜ  新大阪ー広島 151系
なは    大阪ー西鹿児島 キハ80系
日向   大阪ー宮崎 キハ80系
おき    新大阪ー出雲市 キハ181系
はまかぜ 新大阪ー倉吉 大阪ー鳥取 キハ80系

あさかぜ  東京ー博多 20系
さくら    東京ー長崎 20系
はやぶさ  東京ー西鹿児島 20系
みずほ   東京ー熊本 20系
富士    東京ー大分 20系
あかつき  新大阪ー西鹿児島・長崎 20系
月光    新大阪ー博多 581系
金星    名古屋ー博多 583系
明星    新大阪ー熊本 583系
彗星    新大阪ー宮崎 20系
霧島    京都ー西鹿児島 583系
瀬戸    東京ー宇野 20系
安芸    新大阪ー下関 20系

■スタッフ注 現役時代、若いサリーマンにとって昼行特急なんて、もっての外。もっぱら「月光」「明星」などの夜行寝台電車。
中段のパンタグラフ下などが当たれば、”ラッキー!”と大喜びでした。これ お若い方には分かりませんよね(笑)。分かるのは往年の企業戦士だぁ。

加古川線あれこれ(9)




かって加古川駅西方には加古川線の輸送を担う気動車区があり、C11・1両とC12・3両の蒸気機関車、それに気動車37両が所属していました。蒸気機関車は貨物列車用。気動車はキハ20系と35系が中心でした。

当時の加古川線には高砂、三木、鍛冶屋、北条の4支線があり、高砂を除く各支線の列車は“本線”の加古川線に乗り入れるので、特にラッシュ時の加古川線は現在と比べるまでもなく活気があり、まさに交通の要衝の観がありました。(写真は加古川気動車区 昭和46年当時)

貨客車のキハユニ15は、3両有り第活躍していました。(写真は昭和55年頃の5番線)

加古川線あれこれ(8)

かって播州平野を駆け抜けた名車両群。そして今 蒸気機関車、汽動車に替り日夜活躍している故郷の電車。その雄姿をご覧ください。

写真説明 1.加古川線は簡易規格のため、小型軽量のC12型が貨物列車牽引に使用された。(加古川ー日岡間)

2.湘南顔のキハユニ15型が郵便荷物輸送に活躍した。左がキハユニ1511。右がキハユニ151。(厄神駅)

3.キハユニ15型 この形式が最後まで活躍したのは加古川線。1981年(昭和56年)に全廃された。

4.2004年(平成16年)12月、電化開業時に運転を開始した横尾忠則氏デザインの「ラッピング電車」。

5.103系電車。1963~84(昭和38~59)年に3447両が製造され、国鉄最大両数を誇った電車。加古川線加古川~西脇市(旧野村)間では3550番台が、中間車からの先頭車化改造車でユニット2連を組み電化時から使用されている。新製時には中間車のモハ103・102型だった。

「加古川線あれこれ」(7)

加古川線は全長48.5キロと長い路線ではないですが、枝分かれする路線が多く、加古川流域に路線網を形成していました。そこには、かって播州平野一帯に加古川水系の水運を受け継いで、貨物輸送で賑わったことが偲ばれます。また、それだけ播州平野が物産に恵まれた地であった証でもあります。

この地域には、西脇、三木、北条など、古くからの都市や集落が点在し、播州米や西脇の播州織、三木の金物などの産業が盛んで、物資の輸送には水運が利用されてきたが、それに代わる河口の港町高砂に至る鉄道が構想されたのが始まりです。写真は開業した播州鉄道・加古川駅構内。小ぶりなタンク式蒸気機関車が見える。

まず高砂から西脇への路線、北条への支線、三木への支線、加古川から粟津への支線を計画、大正2年(1913)に加古川~国包(現厄神)間が最初に開通しました。また、加古川では山陽本線とは別の加古川町駅だったのが、大正4年(1915)に一つに統合。大正13年(1924)に全線開通しました。
戦時中の昭和18年(1943)に、沿線に飛行場や軍需工場が多く立地したのと青野ヶ原演習場への戦車輸送の必要性から、国有化され軌道強化が行われた。

平成7年(1995)の大震災で山陰・山陽連絡の迂回ルートとしての重要性が認識され、平成16年(2004)に全線電化が完成しました。

加古川線あれこれ(6)


丹波と播州を結ぶ壮大な構想で始まり、かってはその汽動車保有台数日本一を誇った播州鉄道(後に播丹鉄道)も、今はJR加古川線としてその中核部分を残すのみとなりました。

しかし これからも播州路の足として地元に親しまながら街と街を結び、いつまでも走り続けることでしょう。
3路線が接続する粟生駅。右から神戸電鉄、加古川線、左奥に北条鉄道が見える。次回からは更にその歴史的背景など探っていきます。

山陽本線あれこれ(1)

【加古川駅を駆け抜ける、黄金期の山陽本線】 東海道本線に次ぐ日本の大動脈として神戸を起点に瀬戸内を門司まで繋ぎ、数々の名列車が疾走していました。

今回から新幹線開通前 かっての全盛期を偲び東から西へ、順次ご紹介していきます。
山陽本線は昭和39年10月に全線電化が完成。昭和47年3月の新幹線岡山開通、昭和50年3月の新幹線博多開通までの昭和40年代が、国鉄山陽本線の黄金期でした。

全線電化された昭和39年まではまだ特急も少なく、九州直通の急行列車が主力でした。関西始発のブルートレイン「あかつき」は昭和40年10月からです。昭和42年10月からはいよいよ寝台電車581系が登場、昼は「みどり」夜は「月光」として走り続け、これが583系として開花し寝台客車特急が増発されました。一方、急行も準急からの格上げ組が参入し、在来の急行とともに中心勢力として活躍していました。新幹線が存在しても関西~九州間で人気があった583系寝台特急とあわせて、客車も14系、24系、25型と相次いで登場しました。

しかし 昭和50年3月の新幹線博多開業により、昼間の列車は使命を終え引退。夜行列車も順次廃止となり、さしも絶頂期を誇った山陽本線名列車も終焉を迎えたのでありました。お若い方には、ちょっとご迷惑なノスタルジックな話題となります。ご辛抱願います。

■スタッフ注:昭和30年代はまだ蒸気機関車時代、通勤、通学の脚として1時間に2本位の列車はそれこそ貴重な存在でした。神戸まで1時間、大阪までは2時間掛かりました。明石から省線電車(今の普通各停電車)に乗り替えるのが、加古川の若者には楽しみ。舞子、垂水、須磨辺りから乗ってくる若いお嬢さん方が眩しく感じられたものです(笑)。