加古川線あれこれ(2)

加古川駅から厄神駅までの7.4キロ。各駅のご紹介です。

「加古川駅」 加古川線の玄関口である加古川駅舎は大変歴史ある建物です。高架化される前の旧駅舎は、名駅100選にも入っていました。昭和18年封切の往年の名画 「無法松の一生」・板東妻三郎主演の映画ロケ(昭和17年夏)がこのホームで行われたのは有名な話です。ここであの名ぜりふ「夏には坊んが・・」。九州・小倉駅の設定で、当時のロケ写真には駅柱に こくら とあるのが見られます。

写真は高架前の加古川線ホームで、右側が加古川線、三木線。左側が高砂線でした。ホームには売店「弥生軒」もありましたね。

「日岡駅」 約4分。駅を北へ行けば加古川の堤防に出ます。徒歩約5分で桜で有名な日岡山公園と日岡神社があります。古来より安産の神様として、多くの参拝客があります。

「神野駅」 今やベッドタウンとして住宅街の中にあり、橋上駅になりました。かっては陸軍病院への最寄り駅でした。少し歩いて加古川の堤防に出ますと、加古川大堰が目の前です。左岸上荘町薬栗と右岸八幡町中西条間に、昭和63年完成しました。全長422m,水面を利用してレガッタ大会が開かれています。

「厄神駅」 三木線との分岐点でした。加古川市の北の玄関口として開発が進められ、いち早く橋上化されました。宗佐厄神さんと国包の榎(樹齢250年)は有名です。

次回は三木線です。

加古川線あれこれ(1)

電化前の加古川線地元の足として馴染み深い加古川線です。その前身は播州鉄道(後に播丹鉄道)が大正12年(1913年)に開業しました。第二次大戦中の昭和18年(1943年)に国鉄に併合され、現JR・加古川線になりました。

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当初 山陽本線は海岸線に近い高砂を計画していましたが、海運の寂びれを怖れた港町高砂の猛反対で、現在の加古川駅になりました。その為 明石から姫路は直線の海岸線を通らず、山側に迂回した形の現路線になっています。山陽新幹線は直線で通っています。
かっては汽動車(キハ37、40、47型)が走り レカー と呼ばれ親しまれていましたが、平成16年(2004年)に電化(125、103系)されました。

支線には高砂線、三木線、北条線、鍛冶屋線がありました。その他 加古川駅からは加古川刑務所(旧陸軍神野弾薬庫跡)や日本毛織加古川工場、農業倉庫への専用引き込み線もありました。
夏には海水浴客でにぎわい、高砂港駅まで直通の臨時列車(はまぐり号)が出たほどです。又 戦時中は旧陸軍の青野ヶ原演習場(加東市・小野市)への重要な路線で、全国から兵隊さんが利用しました。

駅前の写真には当時のクラウンやセドリックの姿が、おや 東高の女生徒さんらしき制服姿も。構内の写真では、山陽本線下りホームに準急「鷲羽」が停車している姿が見られます。

次回は各駅停車で、加古川から厄神までの7.4キロをご紹介します。

加古川市在住・高29回生のHP「加古川探訪」から引用させて頂きました。当コラムへの使用は了解を戴いております。

ご紹介(2) 平成16年4月~17年3月


平成16年4月に登場したのが、 「テディベア・シリーズ」 です。愛くるしい姿で、エチケットやマナーの啓蒙に活躍しました。今回は16年4月~17年3月をご紹介します。

“ もっと、スマイルメトロへ ” がキャッチコピーでした。

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ご紹介(2) 平成16年4月~17年3月


平成16年4月に登場したのが、 「テディベア・シリーズ」 です。愛くるしい姿で、エチケットやマナーの啓蒙に活躍しました。今回は16年4月~17年3月をご紹介します。

“ もっと、スマイルメトロへ ” がキャッチコピーでした。

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高14回生・HPを拝見して

支部HPとリンクされたので、拝見しました。高14回生とは7年も違うので、違和感があるかなと思って 「あなたはこの写真を覚えていますか」 を見たのですが、60年代にヒットしたニール・セダカの The Diary の懐かしいメロディーに乗って、ハイファイセットの歌う 恋の日記 を聞きながら、思わす瞼が熱くなりました。先生方も殆ど同じでした。お顔を発見した先生方を並べますと原田タコ(美術)、木下ポンチャン(体育)、高橋(国語)、土井ヒス○○○(音楽)、阿部(化学)、中島ズンドコ(数学)、松本(英語)、中安、前田、龍見、好崎、村上、・・・・の諸先生方。もっとお分かりの方、コメントをお寄せ願います。

旧校舎、セーラー服、フォークダンス、修学旅行・・・。走馬灯のようによぎります。正にセピア色の青春です。

高14回近辺の諸氏、必見です。お若い方も年寄りの懐古趣味だと嗤わずに、当時(昭和36~7年頃)の母校の雰囲気を偲んでください。

高4回生(女性)からも寄せられました。高14回生のHPを拝見して、同期にも転送しました。早速 「懐かしい加古川の駅を見て、帰省のときに両親にお土産をいっぱいもらって重かったこと、いつまでもホームで見送ってくれたことなどを思い出しました」とメールをもらい、私も何か良いことをしたような気分になりながら、セピア色の写真を見ました。制服が同じなのでまるで自分を見るような懐かしさがありました。もう 孫のほうが大きくなっていますので、改めて歳を考えました。毎日が平穏に過ぎていくことに幸せを感じています。11月の秋の総会で皆さまにお会いするのを楽しみにしています。とありました。

こちらも何か嬉しくなりました。この高14回生HPは、神戸商船大学ご出身の同窓生が制作されております。素晴らしいHPに感謝です。

「江戸しぐさ」 其の壱

「おい お前 どないしとんどい」 「おう せんどぶり、ぼちぼちやぁ」。他県の人が耳にしたら、なんとも野卑であまりお上品と言えない会話。こんな播州弁が飛び交う中で育った野育ち。しかし 停車場でふと振り返る懐かしい”お国なまり”でもあります。

今や東京支部の諸氏も肩で風切り、花のお江戸で暮らす日々。浅葱裏(あさぎうら)でもございますまい。

こんな忙しいIT社会に、”古めかしい江戸しぐさでもないだろうと” と思われるかも知れません。

でも せっかくの事。東京でご活躍の身、これも何かのご縁でしょう。江戸の人に学ぶ粋なマナーの数々を、恥ずかしがらずにやってみませんか。

「江戸しぐさ」 とは江戸時代に城下町の商人らが心がけていた生活習慣、くせのようなものだそうです。住みやすい世の中をつくる知恵と言えるでしょう。

江戸しぐさは 人にして気持ちいい、してもらって気持ちいい、はた目にも気持ちいいもの

のようです。最近は駄目な大人(例えば、行き違う他の人が店の扉に手を添えていても、黙って横を通り抜けるような心ない人)も目立ってきましたが、江戸しぐさから学び、気持ちよく暮らしていきたいですね。

少しお堅く言うと 「江戸しぐさ」はノブレス・オブリージュ(noblesse  oblige)の精神から生まれた商人道を示すものです。ここには21世紀の生き方のヒントが詰まっていると、江戸しぐさ語りべの会・主宰者の越川禮子氏は説く。世間で今、じんわりと話題をひろげています。

さて 以下の”しぐさ”がおわかりでしょうか。順次 ご紹介してまいります。

「肩引き」「カニ歩き」 狭い道ですれ違う時も、肩を引けばぶつからない。横向きになる「カニ歩き」で、すれ違えば気持ちよく過ごせる。歩道いっぱいに歩く今の若者や、スピードを上げて走る自転車は、迷惑なだけでなくすこぶる危険です。「肩引き」とは「腕引き」ともいい、すれ違う際に右肩、右腕を後ろへ引いて互いにぶつからないようにするしぐさです。

尚 当HPへの引用、掲載は、越川禮子氏の許可を戴いております。

「傘かしげ」「拳(こぶし)腰浮かせ」・・・・。以下つづく

 ご紹介(1)

皆さん、お馴染みの <メトロ・マナーポスター> は、昭和49年(1974年)9月に始まりました。地下鉄を利用する乗客にマナーを理解いただき、お互いが快適な利用をできるのを目的に月替わりで掲示され、公共広告としては異例なほどの人気を博しています。

これはマナーについては、お客様に押し付けがましく、強制すべきものでないと考え、自然におおらかな気持ちでマナーについてご理解いただければと、無理せず、遊び心を失わないようにという 「東京メトロのポリシー」 が共感を呼んだからでしょう。

記念すべき第1号は、歌手の森 昌子さんでした。そして昭和51年(1976年)夏の、マリリン・モンローをモデルにした「帰らざる傘」、チャップリン映画のパロディ「独占者」が登場すると、一躍マナーポスターの知名度は全国区となりました。

この2点のポスターだけで朝日7回、毎日2回、読売2回、サンケイ、日経など、全国紙、地方紙、夕刊紙、スポーツ紙はおろか、ロス・タイムスなどの海外紙にも取り上げられ大きな話題を呼びました。

モンローポスターは銀座駅に貼り出したその日のうちに10枚中7枚が盗まれるという騒ぎになり、広告界ばかりでなく、新聞・雑誌でも大きく取り上げられ、センセ-ショナルな話題となったのは、皆さまもご記憶だと思います。当時 ヤング向け雑誌では、「地下鉄のポスターの盗み方」という特集を組むものまで現れる有様でした。

以下 順次ご紹介してまいります。そのうちにヴィンテージ物にお目にかかれるかも・・・。密かにご期待ください。

尚 このポスターの当HPへの掲載は、メトロ文化財団のご了承を戴いております。

「われいまだ 木鶏(もっけい) たりえず」


不世出の名横綱・双葉山が昭和14年1月15日、1月場所4日目 実に3年振りに黒星を喫し、安芸の海に69連勝で阻まれたその日の夜、知人に打った電報です。

木鶏(もっけい)=鍛えられた闘鶏が、木彫りの鶏のように静かで無心の境地にあるさま。

「有名な話で誰でも知っているよ」 これが清流会と何の関係があるんだいと、ご不審に思われるでしょうが、こんなエピソードがあったのをご紹介いたします。

当時 双葉山はよく高砂へ来ていました。横綱が来る日はいつも高砂駅は黒山の人だかりだったそうです。高砂・南本町にあった清流会・中谷大吉氏(中8回)のご実家への訪問です。

前記の電報を打った知人とは、中谷氏の兄上(清一氏)宛だったのです。これを兄上が、米国航路船上にあった陽明学者・安岡正篤氏に打電したのが、世に出るきっかけとなりました。この辺りは、文芸春秋・平成22年1月号の「昭和の肉声」特集にも掲載されていました。

後年 中谷大吉氏は中央官庁に奉職、上京されましたが戦後の事(昭和23年)でもあり東京での住まいが無く相撲部屋から出勤されていて、お風呂では横綱・鏡里に「坊ちゃん 流しましょう」 と背中を流してもらったこともあるそうです。いかにも人情味豊かな、のんびりした時代が偲ばれますね。これは中谷氏にお聞きした余談ですが、横綱などは生卵で肌を磨くそうです。これは役者さんのお化粧と同じですね。(閑話休題)

謡曲”高砂や~この浦舟に帆をあげて~”や”相生の松”で有名な高砂神社の近くに「横綱稲荷」があります。兄・中谷清一氏が奉納された双葉山の綱、触れ太鼓が納められています。高砂ウォーキングラリー・ポイントの一つになっていると、近くの十輪寺・沢田住職のお話でした。

※注 宝瓶山十輪寺=高砂・横町 弘仁6年(815年)創建の、浄土宗の名刹です。境内には旧高砂城主の墓碑などがあります。

あの有名な話の裏に、郷里・高砂、清流会会員とこんなご縁があったのですね。驚きました。尚 この挿話のご紹介は、中谷さまご一族の了解を頂戴いたしております。

清流会専用ボトル?を発見

先夜 八重洲の飲み屋(北前そば高田屋 八重洲2丁目店)で、こんなのを見つけました。「清流会会員以外は飲んではいけません」とありましたので、そこは遠慮なく頂戴しました。何方がボトルキープされていたのかは存じませんが、ご馳走様でした。呵々・・・

しかし 東京支部会員には、洒落た方がいらっしゃるのですな。ご教養と、懐の深さを感じました。

清流会、恐るべし。