関西人という偏見(3)

例をあげてみますと、ダウンタウンであれば浜ちゃん。著名なお笑い芸人としては明石家さんま氏が挙げられます。特に明石家さんまのツッコミは非常に明快かつ、瞬時であり、そしてどのようなゲストの話であってもそこから面白い部分を抽出する。だからテンポよく面白さが発揮されるのです。ツッコミの上手な人はたくさんの冠番組を持っています。ゲストが誰であれ番組が面白くなるからです。「さんまのまんま」や「さんま御殿」、「恋のから騒ぎ」などは非常に長く続いています。

東京であれば、特にツッコミで多く笑いを取るのは明石家さんまと島田紳助が多く、逆に関西では上沼恵美子、やしきたかじんなどが多く登場します。どなたも非常にツッコミが上手ですね。

一方、ツッコミという概念が確立しているのは、筆者の知っている限り日本くらいのものです。たとえば、アメリカのコメディでは、ツッコミ役はボケの話を膨らませることなく、観客に向かってしかめっつらをすることが多いようです。そしてボケ役も次の発言まで一瞬間を開ける。この「間」によって、アメリカ人は「ここが笑うところなのだ」ということを認識するようです。

ところで、最近「ピン芸人」なる種類の・・・・(次回につづく)

加古川線あれこれ(8)

かって播州平野を駆け抜けた名車両群。そして今 蒸気機関車、汽動車に替り日夜活躍している故郷の電車。その雄姿をご覧ください。

写真説明 1.加古川線は簡易規格のため、小型軽量のC12型が貨物列車牽引に使用された。(加古川ー日岡間)

2.湘南顔のキハユニ15型が郵便荷物輸送に活躍した。左がキハユニ1511。右がキハユニ151。(厄神駅)

3.キハユニ15型 この形式が最後まで活躍したのは加古川線。1981年(昭和56年)に全廃された。

4.2004年(平成16年)12月、電化開業時に運転を開始した横尾忠則氏デザインの「ラッピング電車」。

5.103系電車。1963~84(昭和38~59)年に3447両が製造され、国鉄最大両数を誇った電車。加古川線加古川~西脇市(旧野村)間では3550番台が、中間車からの先頭車化改造車でユニット2連を組み電化時から使用されている。新製時には中間車のモハ103・102型だった。

関西人という偏見(2)

さてさて、どうしてトークは滑ってしまうのでしょうか。もちろん「単純に筆者が面白くないのだ」と言ってしまえばそれまでの話になるのですが、それだけで片付くならこんなコラムは書かないわけで。

6年間色々な人と話をしてみて感じたことなのですが、東京と関西のお笑の大きな違いはやはり「突っ込み」にあると思います。

実はコントにおいても漫才においても、重要なのはボケよりもツッコミ。ボケだけでは一瞬で燃え尽きるところをツッコミで一気にボワっと笑を引き起こす。いわば、ツッコミには関西の人間に「今、この人は面白いことを言いましたよ、面白かったのはこの部分ですよ」と示す役割を果たしています。そして、観客は、ツッコミのいうことが極めてまっとうであると感じたときに初めて、自分の中の常識的感覚とボケとの違いに気付き、なおかつツッコミによる心理的な安堵を得たうえで笑ってしまうのです。

この仕組みは実はさまざまなバラエティでも使われています。有名な司会者やコメディアンというのは総じてボケ上手というよりはツッコミ上手。その場にいる人間の何気ない発言をうまくとらえ、そして、瞬時に柔軟にツッコミを入れることで、見ている人の笑いを引き出します。

例をあげてみますと、・・・(次回につづく)


東高・理数科生徒さん 研修旅行に想う


夏休み 8/3~5の旅程で生徒さん40名、引率の先生3名でお越しになり、先輩一同として東京支部もそれなりに精一杯歓迎させて頂きました。同じタイミングで地学部も、SSH発表会で横浜へ来られました。こちらも横浜在住の先輩に対応して頂きました。(支部HP本文にご紹介)

同窓会として組織立ってのお手伝いは初めてですが、強く感じたのは先輩諸氏の母校愛です。

5月に加古川からご相談を受け、東京支部・年次幹事有志の方々に呼び掛けた処、素早い対応で然るべきメンバーとご連絡頂き、更に素晴らしいのはその方々がご多忙にもかかわらず、快く全面的にご協力頂けたことです。

さすが清流会と意を強くしました。自画自賛のようですが、生徒さんご自身も先輩・後輩の繋がりのご縁を感じ取って頂けたのではないでしょうか。やがては後輩諸君に何らかの形で、よい影響を与えて頂けるものと信じます。

このような素晴らしい企画を立てられた、母校の先生方に敬意を表します。生徒さんからも丁寧なお礼状が届きました。

写真左から、糟谷仁志先生(32回)、谷 正人先生(26回)、名村美保先生(35回)、産総研・宝田晋治氏(36回)です。

今後とも、良き教育をお願い申し上げます。

「江戸しぐさ」 其の五・(相手への気遣い、心配り)

常に相手を考え、尊重する心 「相手を尊重する江戸しぐさ」 をご紹介。

「どうぞご随意に」 こういうと、少々いかめしく聞こえますが、「随意」とは気まま、思うままにという意味で、江戸では良く使われた、個々の自由意思を尊重する優しい気遣いの言葉なのです。

今なら「どうぞお気楽に」「リラックスなさって」 などと相手の緊張をときほぐす言い方が、江戸しぐさに通ずるようです。

例えば人に本をあげたとき、「ぜひ読んでください」 では相手にプレッシャーを与えます。「ご随意に」 と無理な押し付けをしないほうが、相手も気持ち良く受け取ることができます。

「お心肥(おしんこやし)」 人間はおいしいものを食べて身体を肥やすことばかり優先するが、それ以上に心を豊かにし、学問(四書五経)を学び、人格を磨くことに努めるべきだという戒めです。それも書物から学ぶだけではなく、手足を動かし自分で体験して考える実践が大切だと教えています。IQ(知能指数)よりEQ(心の知能指数・感性の豊かさ)を優先させた含蓄のある言葉です。

「三脱の教え」 初対面の人には年齢、職業、地位を聞かないルール。この三つの先入観が入ると、とかくフイルターをかけて人を判断してしまいがちで本当の人間を見る観察力、洞察力が曇ってしまうからです。一流校や大企業の肩書に弱い人は、三脱の教え=実践して人柄を見抜く力を身につけてほしいものです。

性差を尊重した「女しぐさ 男しぐさ」 玄関先の履物の脱ぎ方ひとつで、その家のおつき合いしぐさがわかります。履物は履くときのことを考えて脱ぎます。

江戸では町内の寄り合いなどがあると、女性は上がり框の近いところに、男性は先に来ても上がり框から一尺離れて遠いところに履物を脱ぎ揃えました。男性は足を広げて跨げるけれど、女性にそれをさせたくないという男性の優しい配慮があったからです。今なら女性の脚も長くなり、ズボンをはいているし、跨いでしまうでしょうが。

江戸の男性が女性に思慮深かったのは、「女性は人間の始まりのこと」つまり将来を担う子どもを生み育てる重要な役割を担っているという頭があったからです。女性差別はありませんでした。

商売に女性のカンやマネージメントは大いに活用され、男性も認めていましたし、旅籠や料亭は女将が取り仕切るのが当たり前、その手腕が経営の成否を問われました。男性と女性とでは、見るからに異なる性差があります。江戸では性差を尊重し、男はより男らしく、女はより女らしく 「らしさ」 を競ったものです。

次回もこの続きを紹介します。

一票の格差 (1)

先の参院選は、自民と民主がそれぞれ伸び悩む中、みんなの党が票数を伸ばすという結果になりました。選挙というと、ついつい結果ばかりが気になってしまうところかもしれません。

しかし、今回の選挙で選挙結果とともに大きくクローズアップされたのが、いわゆる「一票の格差」の問題です。

一票の格差問題・・・・我が国における選挙では、選挙区として都道府県が基準とされ、都道府県の中でも人口数に応じて議席が配分される。しかし、都道府県によってかなりの人口数の違いがあり、厳密に人口数に応じての議席配分が行われているわけではない。各都道府県に最低でも一議席は割り振りがなされるので、人口の少ない県では少数の得票でも当選する可能性があり、人口の多い県では多数の票を得ても落選する事になる。

例えば、今回の参院選では17万票で当選する候補もいれば69万表票を得て落選する候補もいました。しかしながら、当選により付与される議員資格は同じものであり、結果として70万票当選議員と17万票当選議員の発言力は同じになります。

本来であれば一人を当選させる票数は同じであるべきであるのに、実際は同じではない。有権者は一人一票の権利を持っているはずなのに、実際は有権者一人がもつ票の価値は、実は居住地によって大きな格差が生じる。これが「一票の格差」の問題です。

この問題は選挙の中でも特に参院選で毎回のように問題提起され、訴訟になるものです。次稿でもう少し詳しく見てみましょう。

「加古川線あれこれ」(7)

加古川線は全長48.5キロと長い路線ではないですが、枝分かれする路線が多く、加古川流域に路線網を形成していました。そこには、かって播州平野一帯に加古川水系の水運を受け継いで、貨物輸送で賑わったことが偲ばれます。また、それだけ播州平野が物産に恵まれた地であった証でもあります。

この地域には、西脇、三木、北条など、古くからの都市や集落が点在し、播州米や西脇の播州織、三木の金物などの産業が盛んで、物資の輸送には水運が利用されてきたが、それに代わる河口の港町高砂に至る鉄道が構想されたのが始まりです。写真は開業した播州鉄道・加古川駅構内。小ぶりなタンク式蒸気機関車が見える。

まず高砂から西脇への路線、北条への支線、三木への支線、加古川から粟津への支線を計画、大正2年(1913)に加古川~国包(現厄神)間が最初に開通しました。また、加古川では山陽本線とは別の加古川町駅だったのが、大正4年(1915)に一つに統合。大正13年(1924)に全線開通しました。
戦時中の昭和18年(1943)に、沿線に飛行場や軍需工場が多く立地したのと青野ヶ原演習場への戦車輸送の必要性から、国有化され軌道強化が行われた。

平成7年(1995)の大震災で山陰・山陽連絡の迂回ルートとしての重要性が認識され、平成16年(2004)に全線電化が完成しました。

加古川線あれこれ(6)


丹波と播州を結ぶ壮大な構想で始まり、かってはその汽動車保有台数日本一を誇った播州鉄道(後に播丹鉄道)も、今はJR加古川線としてその中核部分を残すのみとなりました。

しかし これからも播州路の足として地元に親しまながら街と街を結び、いつまでも走り続けることでしょう。
3路線が接続する粟生駅。右から神戸電鉄、加古川線、左奥に北条鉄道が見える。次回からは更にその歴史的背景など探っていきます。