「江戸しぐさ」 其の六・(心構え)

「芳名覚えのしぐさ」 といわれて、会合でも第一回目には座った両脇の人の名前を覚える。次は前とその両脇の三人というように、その都度座席を変え何度か出ているうちに、仲間全部の名前を覚えるという観察力と気配り(用心深さ)を暗に教えていたのです。それも誰かが呼ぶ機会を待って、自然に覚えるようにしたのです。現在は名刺一枚の肩書、権威、地位で人物を評価する傾向が強い気がします。

「共有する思想」 共有する施設や場所は、一人ひとりが他人も使うことを意識して、汚したり、破損させたり、他人に迷惑をかける行為をしないことです。自分の所有物は大切にするのに、共有するものをぞんざいに扱う人がいます。共有する思想がない人は、仕事も私生活も出来ない人です。江戸の人々なら「そんなことをして、ご先祖様が泣きませんかえ」と嘆くでしょう。

「意気合いしぐさ」 一つの事を大勢でやる機会、みんなで気持ちを合せて活動すること。商売でも遊びでも、みんなの意気が合えばうまくいくものです。組織や集団が大きくなればなるほど、目的達成に意気を合せることが必要になります。これも江戸の”イキ”です。

イキは「生き生き」です。 「粋」 (京都のスイ)ではなく、心意気、意気地のイキです。組織がイベントを決行する時も、上から押し付けるのでなく、隣人との意気合わせからグループの意気合わせへと結束が必要です。重い神輿を担ぐにも、「わっしょい、わっしょい」の掛け声で意気を合せ、一つの大きなエネルギーを作ります。

山陽本線あれこれ(2)


皆さん お馴染み深いかっての「特急」「急行」列車を列記しました。どれだけ覚えていますか。往時を思い出してみてください。

【特急】 ほとんどは昭和50年3月に廃止されました。

かもめ   京都ー長崎・宮崎 キハ80系
みどり   新大阪ー熊本・大分 キハ80系
うずしお  新大阪ー宇野 151系
つばめ   新大阪ー博多 151系
はと    新大阪ー博多 151系
しおじ   新大阪ー下関 151系

ゆうなぎ  新大阪ー宇野 151系
いそかぜ  大阪ー宮崎 キハ80系
しおかぜ  新大阪ー広島 151系
なは    大阪ー西鹿児島 キハ80系
日向   大阪ー宮崎 キハ80系
おき    新大阪ー出雲市 キハ181系
はまかぜ 新大阪ー倉吉 大阪ー鳥取 キハ80系

あさかぜ  東京ー博多 20系
さくら    東京ー長崎 20系
はやぶさ  東京ー西鹿児島 20系
みずほ   東京ー熊本 20系
富士    東京ー大分 20系
あかつき  新大阪ー西鹿児島・長崎 20系
月光    新大阪ー博多 581系
金星    名古屋ー博多 583系
明星    新大阪ー熊本 583系
彗星    新大阪ー宮崎 20系
霧島    京都ー西鹿児島 583系
瀬戸    東京ー宇野 20系
安芸    新大阪ー下関 20系

■スタッフ注 現役時代、若いサリーマンにとって昼行特急なんて、もっての外。もっぱら「月光」「明星」などの夜行寝台電車。
中段のパンタグラフ下などが当たれば、”ラッキー!”と大喜びでした。これ お若い方には分かりませんよね(笑)。分かるのは往年の企業戦士だぁ。

「旧陸軍・加古川飛行場」の記憶(3)

●中12回の大先輩・中崎日出男さまから、お便りをお寄せ戴きました。以下 ご書状を抜粋して紹介いたします。尚 先輩のご了解で実名での紹介とさせて頂きました。

「私は中学12回生で、昭和13年に4年生から陸士に進み、昭和17年3月陸軍航空士官学校を卒業して軍務に就き終戦に至りました。

中学在学中、飛行第13聯隊長を実家(泊神社のとなり)の離れでお世話しておりました。聯隊の発足時は95式戦闘機で、陸士に入った時は97式になっていました。

太平洋戦争が始まった時点では、第13戦隊(改編)は大正飛行場(八尾)に転開し尾上飛行場には飛行第246戦隊が駐在しておりました。

陸軍の施設として他に尾上と浜の宮に航空通信学校の分校があり、加古中の正面の国道筋には憲兵隊があったのを思い出します。

木村神社の森に退避されたのは95式練習機で、尾上には実戦機はなかったと思われます。稲屋から宮川の橋を補強して、人力で押して夜中に移動したようです。

終戦の翌々日の昭和20年8月17日、九州から水戸へ復帰の途中に尾上飛行場に着陸、離陸しました。これがおそらく尾上飛行場での最後の飛行機ではないかと思います。」

と結んでありました。 写真は尾上飛行場から編隊離陸する95式戦闘機、上谷氏ご提供。

●中18回の大先輩・尼子宗二氏(三木出身・最後の海兵78期生)からも、これに関連して日本海軍、陸軍の制式軍用機の資料なども頂戴しました。又 別稿でご紹介いたします。

伺ったエピソードでは、元巨人軍の青田昇氏(三木出身・滝川)が昭和19年2月から、尾上飛行場に乙幹(伍長)で軍務に就かれていたそうです。

●高1けたの女性からも「私も土手で飛行機を押しました」と届きました。米田ご出身の方で当時国民学校3年だったそうです。「小さな女の子でも見たらお手伝いする、そんな時代っだのです」と。たしか銃後の護りという言葉がありました。

■スタッフ注:旧制中学大先輩から、大変に貴重なお話を頂戴し感謝いたしております。風化しつつある郷土の歴史、その1ページです。しかし 当時小学生だった女性のお話には驚きました。

加古川の近代建築物(3)

「あかがね御殿」

明治から昭和にかけて加古川市を代表する肥料メーカー・多木製肥所(現多木化学)の創業者・多木久米次郎氏が、迎賓館として建築。昭和8年(1933年)に完成した4階建ての洋館です。正式名称は「多木浜洋館」です。

外壁や屋根に銅板を張り巡らせた特異ともいえる贅沢な造りから「あかがね御殿」と呼ばれるようになり、平成14年(2002年)にはその歴史的な価値から国の登録有形文化財となりました。
別府港近くの地に、その重厚感あふれる威容を放っております。

加古川線あれこれ(9)




かって加古川駅西方には加古川線の輸送を担う気動車区があり、C11・1両とC12・3両の蒸気機関車、それに気動車37両が所属していました。蒸気機関車は貨物列車用。気動車はキハ20系と35系が中心でした。

当時の加古川線には高砂、三木、鍛冶屋、北条の4支線があり、高砂を除く各支線の列車は“本線”の加古川線に乗り入れるので、特にラッシュ時の加古川線は現在と比べるまでもなく活気があり、まさに交通の要衝の観がありました。(写真は加古川気動車区 昭和46年当時)

貨客車のキハユニ15は、3両有り第活躍していました。(写真は昭和55年頃の5番線)

「旧陸軍・加古川飛行場」の記憶(2)

早速、加古中生徒さんだった先輩から当時(戦争中)の思い出が寄せられました。

● 昭和20年6月、確かに飛行機を押しました。現在の宝殿中学(日の丸牧場)の辺り、通称”がんまく”に隠されていた、絹張り翼、木製プロペラの複葉機を約10人がかりで加古川の堤防まで押し上げ、尾翼を前にして土手道を相生橋まで押して行きましたが、そこで橋の欄干に翼が引っ掛ってしまいました。放課後からかかり、夜中に雨に濡れながら寺家町の自宅に帰りました。

写真は95式戦闘機 キー10(川崎航空機製)。飛行場開隊時に配置されていた。

●昭和19年12月7日、尾上飛行場で偽装網をわらで編み上げました。翌12月8日は開戦日で敵機の来襲があるとの思いこみでした。作業が終わってから駆け足で加古川国民学校に戻ってきました。(今の小学校6年生でした)

尾上・池田の浜一帯には、砂浜に対空機関銃が並んでいました。

●昭和20年7月23日、日本毛織加古川工場へ来襲した艦載機コルセアの機銃掃射がありました。工場正門(今のパークタウン)から国道2号線への道路で、民家がロケット弾による被害を受けお一人が亡くなられました。

■スタッフ注:実際に体験された先輩の生々しいお話です。確かに池田の浜に貝拾いに行った時、赤さびた機関銃が打ち捨てられていたのを覚えています。

明石と姫路はB29の爆撃を受け多くの方が亡くなられましたが、加古川はこの機銃掃射だけでした。コルセア(corsair):ヴォート・チャンス社製F4U。

「旧陸軍・加古川飛行場」の記憶(1)

昔、加古川に飛行場があったのを、皆さん、ごぞんじでしょうか。旧加古郡尾上村池田にあった通称・尾上飛行場です。写真は97式戦闘機(キー27 中島航空機製)。

昭和12年(1937年)に関西の防空の要として建設され、500~1700mの滑走路が5本ありました。この飛行場は戦闘機実戦部隊(飛行第十三戦隊)の航空基地として昭和13年3月に発足しました。今 跡地は工場などになっていて、その面影を偲ぶものはありません。

旧加古郡野口村水足にあった高射砲隊(現在はハリマ化成)や神野弾薬庫(現在は加古川刑務所)と結ぶ道(現在の藤原製作所前の道)が高射砲道と呼ばれていた所以です。太平洋戦争末期には、特攻隊の中継基地としてここから多くの若者が九州方面に向けて、帰らぬ出撃に飛び立ちました。

高砂市曽根町ご在住の「加古川飛行場を記録する会・代表上谷昭夫氏」から、当時の残された写真や記録を提供戴きました。ご了解を得、順次ご紹介して参ります。歴史に刻まれたふるさとの記憶に思いをいたしてください。

■スタッフ注:まだ国民学校生徒だった子供のころ、木村神社などに退避されていた飛行機をよく見に行ったものです。防弾ガラスの匂いがドロップによく似ていたのを思い出します。この移動はなんと人力でやっていたのですね。旧制中学の大先輩達は勤労奉仕で駆り出されていました。上谷氏も子供のころ、加古川の土手道でこの搬送の様子を目撃されたそうです。

神野には旧陸軍第106連隊の兵舎があり(山手中学のあたり)、三木にも飛行場(第六錬成飛行隊)がありました。

関西人という偏見(4)

ところで、最近「ピン芸人」なる種類の人間が出てきたことは皆さんのよく知るところかと思います。もうブレイクしたのはずいぶん前になりますが、我らが加古川東からはレイザーラモンHGという芸人さん(本名・住谷正樹氏、高46回)が出ました。しかし彼はツッコミがあまり得意ではなかった。奇抜な恰好と「フォー」という表現でボケることしかできなかった。そのためそれ以上の活躍の幅がなく、結局すぐに飽きられ、燃え尽きる「一発屋」となってしまったわけです。なんとか新境地を開いてほしいですね。

それに対して、加古川東出身ではありませんが、同じ加古川出身の芸人として急激に成長したのが陣内智則氏です。彼も昔はコンビで漫才を組んでいたけれどもちっとも売れなかったそうです。もう芸人をやめる寸前まで追い込まれたとかなんとか。

しかし、そんな彼を救ったのはたった一回の電車のアナウンスでした。どうも、陣内氏が乗っていた電車のアナウンスの一部におかしなところがあり、彼がそれに対してツッコミを入れたところ、周囲の一般乗客から思いの他たくさんの歓声をあびたとかなんとか。

そこから彼は、「ボケ役を他人に任せてしまい、自分はツッコミに徹する」という芸風にシフトチェンジしていきます。「エンタの神様」などの番組でご覧になられた方もいるかもしれませんが、彼の芸は流れてくる映像にボケを入れておいて、自分はそれにひたすらツッコミを入れるといういわば「ツッコミ芸」です。あらかじめボケがわかっておけば、面白いツッコミも先んじて用意することが出来る。見事な発想だといわざるを得ません。

(次回につづく)