ニッケ社宅倶楽部 明治32年の日本毛織加古川工場の操業開始に合わせて、外国人技師住宅として2棟建てられました。社宅群の一角にあります。
外国人専用の住宅は、この地方では初めて目にする本格的な洋風住宅でした。
【須磨~垂水間】 は六甲山系が海岸にまで迫り、須磨浦公園を削って無理やりに造った狭い中を海側から「山陽本線・電車線」、「山陽本線・列車線」、「国道2号線」、「山陽電鉄」と階段状に並走し、目の前は瀬戸内海。そして淡路島を望む如何にも神戸らしい景勝の地です。
電車線の快速は113系湘南型が主役で走り、普通は西明石まで103系や旧型の72系も使われていました。一番山側の山陽電鉄には須磨浦公園駅まで阪急、阪神も梅田から乗り入れていました。
写真下は宮崎からの夜行急行「日南」。編成の半数は寝台車でしたが、グリ~ン車や普通車も4両連結されていました。特に普通車はかっての特急用一方向き座席車・スハ44が使用されていたため、絶大な人気がありました。(昭和49年、須磨~塩屋間・上り線)
写真上は須磨浦特有の松林を走る往年の電車特急「富士」。新幹線開通前の山陽本線は広島まで電化され、「つばめ」、「富士」、「うずしお」の3往復が電車特急として広島や宇野まで直通していました。パーラーカー付きの151系12両編成でした。(昭和39年、須磨~塩屋間、国道2号線越し)
■スタッフ注:この区間は白砂青松、山陽本線を代表する見事な眺めでしたが、無残にも海岸線は埋め立てられ、もっともっと豊かだった松林も、国道拡幅や線路増で、須磨浦公園と同様に西方の舞子公園までも削られました。当時は六甲山を削り、海を埋め立てる神戸市・原口市長のスタイルが「株式会社・神戸」と褒めそやされる高度成長期だったため、何の議論も起こりませんでしたが、自然景観保護が叫ばれる現在なら如何でしたでしょうか。今昔の感があります。
「年代しぐさ」 志学(しがく 十五歳)、弱冠(じゃっかん 二十歳)、而立(じりつ 三十歳)、不惑(ふわく 四十歳)、知名(ちめい 五十歳)、耳順(じじゅん 六十歳) のしぐさがそれぞれありました。
江戸の町衆は年相応のしぐさを互いに見取り合って、文化的、人道的に暮らしていた。例えば歩き方にしても、志学の代は駆けるように歩き、弱冠の代は早足、而立の代は左右を見ながら注意深く歩いた。志学の代でぐずぐず歩いていると、弱冠の代がたしなめ、不惑の代が若いつもりで駆けたりすると、腰を痛めるといわれた。
耳順(還暦)の代の「江戸しぐさ」は、「畳の上で死にたいと思ってはならぬ」「おのれは気息奄奄、息絶え絶えのありさまでも、他人を勇気づけよ」だった。六十歳を越えたら、他人のためにはつらつと生き、いつくしみとユーモアの精神を忘れないように心がけた。耳順の心得は、なによりも若者を立てることでもあった。
こうした「年代しぐさ」のバックボーンには共生の土壌があった。若者には年長者に敬老の思いがあった。自分よりも体力的にハンディキャップのある年長者を常に思いやる「くせ」が身についていた。
「稚児しぐさ」 には大人の資格がない。稚児というのは子供のこと。人の迷惑を考えない子供っぽい振る舞いを「稚児しぐさ」という。例えば、電車の中で化粧をしたり、物を食べたり、どこでも構わず座ったり、タバコのポイ捨てなど。こんな事を平気でする人は無神経といわれてもしかたないし、一人前の社会人とはいえません。「稚児もどり」ともいいます。
江戸しぐさではこの 「稚児もどり」 を厳しく戒めました。