播磨小学校のクスノキ

高さ約12㍍、幹周りは2.9㍍もある。明治33年(1900年)に加古郡阿閇村立阿閇尋常小学校校庭には8本の苗木が一列に植えられました。戦後 色んな事情が重なり苦悩の末、7本が伐採されこの1本だけが残りました。そんな経緯もありこの1本は今や地域のシンボルになっています。そして学校の体操服にはクスノキがデザインされている。

播磨町宮北

高砂の近代建築物(4)

高砂市朝日町にある旧朝日町浄水場の給水塔。

大正期の威容ある給水塔。鉄骨のこの時期のものは全国でもわずかな例しかありません。加古川市がやっと昭和28年に水道事業を開始するまでは播磨では唯一の上水道施設として先進性を誇る存在でした。筆者などは学校(加古川小)から見学に行って、へぇ~高砂には水道があるのだ!と驚いた手合いです。

山陽本線あれこれ(5)

【須磨~塩屋、舞子~明石間】

最も地形が厳しい塩屋付近。電車線を走る米原行き快速電車。湘南カラー・113系8両編成で中央部にサロ110が見える。当時の快速電車には殆どグリ~ン車が連結されていた。まだ冷房車は少なく、天井にはJNRマークの扇風機が付いていました。左山頂に須磨浦公園ロープウェイが望める。(昭和49年、須磨~塩屋間)

上り大阪行き気動車特急「みどり」。大阪乗り継ぎで東京~博多間が日帰り可能となった。すれ違うはEH10が牽く下り貨物列車。(昭和37年、舞子公園)

明石は日本標準子午線(東経135度)が通る町。車窓からその通過標識が見える。

江戸しぐさ 其の九 (半畳を入れる)

「半畳を入れる」 江戸市中にはたくさんの芝居小屋があった。当時は椅子席ではなく座布団がわりに小さな筵(むしろ)を敷いて座って見物する。その筵のことを半畳という。役者が下手な芝居をやると、客はその半畳を舞台に投げ入れて怒りを表現した。

そのことから「半畳を入れる」とは、非難したり、からかったりすることをさすようになった。

間同士で半畳を入れるのは、相手をバカにするので、本来品のない行為とされ、するべきことではなかったが、年上の人間は、年下の人間に対して半畳を入れることが許された。ただし、やたらに半畳を入れるのではなく、年下の者の発言を批判したり、間違いを正す場合のみ、ひとつのしぐさとして容認されていたのである。

つまり年長者として間違いを正す資格があったからです。お年寄りが言うことを「古い」といって取り合わないのは愚かなことで、江戸ではお年寄りの経験からくる知恵や意見は尊重されました。

今のお年寄りは、若い者に半畳を入れる勇気も自信もないようです。若い人も、お年寄りを人生の先輩として、たまには暮らしの知恵をお借りしてみてはどうですか。