「旧陸軍・加古川飛行場」の記憶(3)

●中12回の大先輩・中崎日出男さまから、お便りをお寄せ戴きました。以下 ご書状を抜粋して紹介いたします。尚 先輩のご了解で実名での紹介とさせて頂きました。

「私は中学12回生で、昭和13年に4年生から陸士に進み、昭和17年3月陸軍航空士官学校を卒業して軍務に就き終戦に至りました。

中学在学中、飛行第13聯隊長を実家(泊神社のとなり)の離れでお世話しておりました。聯隊の発足時は95式戦闘機で、陸士に入った時は97式になっていました。

太平洋戦争が始まった時点では、第13戦隊(改編)は大正飛行場(八尾)に転開し尾上飛行場には飛行第246戦隊が駐在しておりました。

陸軍の施設として他に尾上と浜の宮に航空通信学校の分校があり、加古中の正面の国道筋には憲兵隊があったのを思い出します。

木村神社の森に退避されたのは95式練習機で、尾上には実戦機はなかったと思われます。稲屋から宮川の橋を補強して、人力で押して夜中に移動したようです。

終戦の翌々日の昭和20年8月17日、九州から水戸へ復帰の途中に尾上飛行場に着陸、離陸しました。これがおそらく尾上飛行場での最後の飛行機ではないかと思います。」

と結んでありました。 写真は尾上飛行場から編隊離陸する95式戦闘機、上谷氏ご提供。

●中18回の大先輩・尼子宗二氏(三木出身・最後の海兵78期生)からも、これに関連して日本海軍、陸軍の制式軍用機の資料なども頂戴しました。又 別稿でご紹介いたします。

伺ったエピソードでは、元巨人軍の青田昇氏(三木出身・滝川)が昭和19年2月から、尾上飛行場に乙幹(伍長)で軍務に就かれていたそうです。

●高1けたの女性からも「私も土手で飛行機を押しました」と届きました。米田ご出身の方で当時国民学校3年だったそうです。「小さな女の子でも見たらお手伝いする、そんな時代っだのです」と。たしか銃後の護りという言葉がありました。

■スタッフ注:旧制中学大先輩から、大変に貴重なお話を頂戴し感謝いたしております。風化しつつある郷土の歴史、その1ページです。しかし 当時小学生だった女性のお話には驚きました。

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