【加古川~宝殿間】
加古川鉄橋を渡りニッケ印南工場を過ぎると、宝殿駅までは一面の田んぼばかりでした。
写真は荷物専用列車を牽く上り線のEF58。国鉄時代、郵便や小荷物は鉄道輸送の一分野であり、幹線では専用列車が運転されていた。EF58、EF61牽引は車長も客車並みに長く人気があった。後方遥かに播州の山並みが見える。 ”島美人” の野だて看板も懐かしい。清酒島美人は播州では有名な銘酒。加東郡河合村粟生字島(現小野市)で醸造されていたのでこの名が付けられた。
2001年9月11日から10年になります。当時 N.Yに居た友人から書状が寄せられました。あの9・11には皆さまもそれぞれに思いをお持ちでしょう。
彼の手記からです。
1998年、彼は赴任先のN.Yで初フルマラソンに参加しました。沿道観衆250万人、あの世界最大の市民マラソン。ニューヨ-ク・シティー・マラソンです。スタート地点はスタテンアイランドのベラザノブリッジ橋上にある。この橋は3万人以上の重量を支えられない為に、これが理由で出場者は3万人に制限されている。
ブルックリン、クィーンズ(ウィリアムズバーグ街・ユダヤ人地区、全く声援なし)を抜けブロンクスへ。再びマンハッタン、セントラルパークから5番街、花道を走る。ハーレム、こんな時でないと来れない場所。NYは人種のサラダボウルだ。
59丁目セントラルパーク・サウス、プラザホテルのまん前。フィニッシュも近い、「がんばって」と日本語も混じる。恥ずかしいほどの晴れ舞台だった。
完走5時間21分。秋の夕暮れの肌寒い中、初マラソンとしてはちょうどよいタイムだったそうだ。
この大会出場での収穫は、自分の足でニューヨークの街並みを走り、そして切れ目のないニューヨーカーの大声援が自分の背中を後押しし支えてくれた事だ。と彼は語る。
このわずか数年後にあの悲劇がNYを襲った。直前の2001年8月にフエリー船上からWTC・ツインビルを撮った時、誰がこれを予想できたでしょうか。10年の歳月を想い、あらためて犠牲者に哀悼の意をささげる。
環状2号線は終戦直後の1946年、新橋から神田佐久間町間を幅100㍍で計画された。これはGHQの要求であると言われたところから「マッカーサー道路」と呼ばれるようになった。新橋~虎ノ門部分のみが着工されていなかった。
半世紀以上を経て再始動した計画は、自動車専用の本線は地下トンネルとなり、地上は広々とした空間となる。有明までの全通時には勝どきを経て隅田川を渡る。晴海通りの渋滞緩和に効果が大きい。
完成予定は2014年度。将来的に勝どき・有明方面へ路面電車を走らせる案もある。
都内の環状線と通称名
環状1号線=内堀通りなど
環状2号線=外堀通り、新大橋通りなど
環状3号線=外苑東通り、言問通りなど
環状4号線=外苑西通り、不忍通りなど
環状5号線=明治通りなど
環状6号線=山手通り
環状7号線、環状8号線