「加古川線あれこれ」(7)

加古川線は全長48.5キロと長い路線ではないですが、枝分かれする路線が多く、加古川流域に路線網を形成していました。そこには、かって播州平野一帯に加古川水系の水運を受け継いで、貨物輸送で賑わったことが偲ばれます。また、それだけ播州平野が物産に恵まれた地であった証でもあります。

この地域には、西脇、三木、北条など、古くからの都市や集落が点在し、播州米や西脇の播州織、三木の金物などの産業が盛んで、物資の輸送には水運が利用されてきたが、それに代わる河口の港町高砂に至る鉄道が構想されたのが始まりです。写真は開業した播州鉄道・加古川駅構内。小ぶりなタンク式蒸気機関車が見える。

まず高砂から西脇への路線、北条への支線、三木への支線、加古川から粟津への支線を計画、大正2年(1913)に加古川~国包(現厄神)間が最初に開通しました。また、加古川では山陽本線とは別の加古川町駅だったのが、大正4年(1915)に一つに統合。大正13年(1924)に全線開通しました。
戦時中の昭和18年(1943)に、沿線に飛行場や軍需工場が多く立地したのと青野ヶ原演習場への戦車輸送の必要性から、国有化され軌道強化が行われた。

平成7年(1995)の大震災で山陰・山陽連絡の迂回ルートとしての重要性が認識され、平成16年(2004)に全線電化が完成しました。

加古川線あれこれ(6)


丹波と播州を結ぶ壮大な構想で始まり、かってはその汽動車保有台数日本一を誇った播州鉄道(後に播丹鉄道)も、今はJR加古川線としてその中核部分を残すのみとなりました。

しかし これからも播州路の足として地元に親しまながら街と街を結び、いつまでも走り続けることでしょう。
3路線が接続する粟生駅。右から神戸電鉄、加古川線、左奥に北条鉄道が見える。次回からは更にその歴史的背景など探っていきます。

山陽本線あれこれ(1)

【加古川駅を駆け抜ける、黄金期の山陽本線】 東海道本線に次ぐ日本の大動脈として神戸を起点に瀬戸内を門司まで繋ぎ、数々の名列車が疾走していました。

今回から新幹線開通前 かっての全盛期を偲び東から西へ、順次ご紹介していきます。
山陽本線は昭和39年10月に全線電化が完成。昭和47年3月の新幹線岡山開通、昭和50年3月の新幹線博多開通までの昭和40年代が、国鉄山陽本線の黄金期でした。

全線電化された昭和39年まではまだ特急も少なく、九州直通の急行列車が主力でした。関西始発のブルートレイン「あかつき」は昭和40年10月からです。昭和42年10月からはいよいよ寝台電車581系が登場、昼は「みどり」夜は「月光」として走り続け、これが583系として開花し寝台客車特急が増発されました。一方、急行も準急からの格上げ組が参入し、在来の急行とともに中心勢力として活躍していました。新幹線が存在しても関西~九州間で人気があった583系寝台特急とあわせて、客車も14系、24系、25型と相次いで登場しました。

しかし 昭和50年3月の新幹線博多開業により、昼間の列車は使命を終え引退。夜行列車も順次廃止となり、さしも絶頂期を誇った山陽本線名列車も終焉を迎えたのでありました。お若い方には、ちょっとご迷惑なノスタルジックな話題となります。ご辛抱願います。

■スタッフ注:昭和30年代はまだ蒸気機関車時代、通勤、通学の脚として1時間に2本位の列車はそれこそ貴重な存在でした。神戸まで1時間、大阪までは2時間掛かりました。明石から省線電車(今の普通各停電車)に乗り替えるのが、加古川の若者には楽しみ。舞子、垂水、須磨辺りから乗ってくる若いお嬢さん方が眩しく感じられたものです(笑)。

「 はとバス ”昭和の懐メロ” ツアー 」 その続き

昭和24年(1949年)にスタートした東京観光の定番 「はとバス」。業績好調の理由はコース設定にあり。
実は91年度に94万人あった乗客数は、2004年度には54万人を下回ってしまった。深刻な危機感を抱き徹底したコース改善に取り組んだ結果、06年度に一気に7万人伸ばした後も年間約2万人ずつ乗客数を増やしている。
現在の一番人気の定番主力商品「東京半日A」、「東京名所B」、「東京1日C」のコース内容は91年と殆ど変っていないが、全員が智恵を出し合った見直しや値下げで売り上げが増加し利益は大きく伸びたと言う。

前回ご紹介した大ヒット企画「昭和の懐メロツアー」の他にも、「東京、只今工事中。」も応募者殺到との事。これは建設中の東京新名所「東京スカイツリー」や「東京港臨海大橋」を合せて「今しか見られない建設現場を見学!」という新企画商品。

60周年企画として行った「昭和の名ガイドと行く都内半日コース」。昭和の時代に現役だったが、今は退職している50歳以上のOGたちに声をかけ、現役復帰してもらった。この時 当時の料金250円で企画したところ、600人の定員に対して何と5万人の応募。

そこで生まれたのが『あの歌この歌東京ドライブコース』。歌よりもまず見せたい場所、コースを選定。昭和の時代を生きた方々にとって、思い出の強いところを選び、そこに合う歌を選んだ。
例えば上野駅では井澤八郎さんの「ああ上野駅」を歌う。全部で19曲にも及ぶが、参加者は全員が合唱に加わる。ツアー終了後に涙を流しながら、しっかりと手を握って礼を言われることもある。「現役時代でもそこまで感謝されたことはなかった。歌を通して、人から人へこれだけの喜びが伝わるということは本当にありがたいことです」とガイドさんは語る。

1回2500円のこのコースは人気沸騰。キャンセル待ちの状態が続く。

加古川の近代建築物(1)


加古川は古くから交通の要衝として栄え、東播磨の工業・商業の中心地として発展してきました。今回から 市内各所に点在しているノスタルジックな近代建築をご紹介していきましょう。

レンガ造りの建物が多数残る「ニッケ加古川工場・印南工場」
加古川の流れを挟んで、東に加古川工場、西に印南工場があります。東播磨はかって日本でも有数の織物生産地でした。その中でも代表的な企業・日本毛織。明治32年(1899年)操業の加古川工場、大正9年(1920年)操業の印南工場の広大な敷地内にはイギリスからの輸入レンガによる工場棟、倉庫群が多数ありました。現在でもかなり残っており今でも使われています。かっての6番倉庫は「カラオケレンガ館」として改装され、レンガ外壁に触れることができます。

高29回生・HP「加古川探訪」から引用。ご了解は頂いております。

企業経営者の高額報酬(3)

2010年3月決算から、年間「1億円以上」の報酬を得た上場企業の役員は、有価証券報告書に記載しなければならいことになりましたが、6月30日までの提出では、167社・289人が該当します。

基本報酬や賞与に加えて、ストック・オプション、退職慰労金、年間配当収入などがあります。
ご参考までに役員報酬(ストック・オプション、退職慰労金を含む)と、配当収入の合計ベスト10を別表にしました。やはり創業者が多いようです。

「江戸しぐさ」 其の四・(往来しぐさ)

(往来しぐさ)の最終回です。

「とうせんぼしぐさ」 人の通行を邪魔すること。つい話に夢中になっていて後ろから来る人に気が付かないのも野暮な証拠。「背中にも目をつけろ」 と叱られた。人にされると腹が立つのに、自分は案外気づかぬうちにしていませんか。電車の入り口で乗客の乗り降りの邪魔をしている人をよく見かけます。一度降りて乗り直す配慮を。

「仁王立ち」 人の前をさえぎること。現代では大きなカバンやリュックを肩にかけたまま、直ぐに降りないのに電車の入り口付近に立って、乗り降りを妨げる行為などでしょう。

「束の間しぐさ」 赤の他人と隣り合わせても、一寸言葉を交わすことを言う。ご縁、和み。

現代では長時間乗る新幹線の隣席でも挨拶しないことが普通になってしまいましたが、一言挨拶するか会釈をしておくだけで、互いに気持ちよく過ごせます。

「会釈の眼差し」 目で挨拶するというのは、顔を柔和にする効果がある。相手を睨むわけではないので、自然と和やかな顔になります。そうすれば、殺伐とした空気は生まれない。

「横切りしぐさ」 これもしてはいけないしぐさ。人の前を横切ることは失礼極まりない無礼とされた。歩いて急に立ち止まるのも事故のもと。人前に出る時は「右回り」 右手をちょっと出して「ごめんなさいよ、みんなの前を横切ってあい澄みません」と、右を回っていくしぐさです。こんなしぐさがとっさに出れば、社会人として合格です。せめて人前を通るときは、「澄みません」ぐらいは言える大人でありたいものです。

次回は「相手を尊重する江戸しぐさ」 を紹介しましょう。以下つづく