文豪・三島由紀夫ゆかりの松

旧加古川公会堂。その建物の北側に、樹齢約100年、高さ5㍍ほどの松がある。三島の本籍は旧印南郡志方村上富木。大東亜戦争末期の昭和19年(1944年)、三島由紀夫(本名 平岡公威 ひらおか きみたけ)はこの松の下で徴兵検査を受けた。

三島はその時のことを、自伝的小説「仮面の告白」の中で触れている。「私は・・・本籍地のH県で検査を受けていた。農村青年たちがかるがると十回も持ちあげる米俵を、私は胸までも持ちあげられずに、検査官の失笑を買った・・・」。

松は公会堂として建てられた時(昭和10年)にはあったということ以外に詳細は分からない。加古川市加古川町木村 この出来事が後年、彼のボディ・ビルに繋がったのでしょうか。筆者の個人的想像です。

播磨小学校のクスノキ

高さ約12㍍、幹周りは2.9㍍もある。明治33年(1900年)に加古郡阿閇村立阿閇尋常小学校校庭には8本の苗木が一列に植えられました。戦後 色んな事情が重なり苦悩の末、7本が伐採されこの1本だけが残りました。そんな経緯もありこの1本は今や地域のシンボルになっています。そして学校の体操服にはクスノキがデザインされている。

播磨町宮北

高砂の近代建築物(4)

高砂市朝日町にある旧朝日町浄水場の給水塔。

大正期の威容ある給水塔。鉄骨のこの時期のものは全国でもわずかな例しかありません。加古川市がやっと昭和28年に水道事業を開始するまでは播磨では唯一の上水道施設として先進性を誇る存在でした。筆者などは学校(加古川小)から見学に行って、へぇ~高砂には水道があるのだ!と驚いた手合いです。

高砂の近代建築物(3)


鐘ケ淵紡績と並ぶ名門「三菱製紙高砂工場」は、明治34年に豊富な工業用水を求めて神戸から高砂へ移転しました。

その外国人技師の居住施設として建てられた「魚町倶楽部」が保存され、高砂随一の洋館として市民に親しまれています。

当時の木造洋館の標準的な造りで薄い緑色の下見板貼りの壁面と、ハーフティンバー式の壁が組み合わされ、煉瓦の煙突、鎧戸、玄関の柱飾り、アーチ型の入り口等、当時の木造洋館の装飾意匠がふんだんに駆使されています。

高砂の近代建築物(2)

明治41年に操業を開始した鐘ケ淵紡績高砂工場と鐘ケ淵人絹工業の存在は、高砂町の経済のみならず生活一般に大きな影響を与えていました。

この出汐館」は迎賓館として昭和11年に建築されました。大きなアールを持った階段室、ステンドグラスの階段窓が特徴的です。現在はカネカ(人絹工業の後身)の社員厚生施設として使用されています。

たこフェリー(明石ー岩屋間)が運航休止

淡路島への脚としてお馴染みだった明石港ー岩屋港間の淡路フエリーが11月15日で運航休止となっている。

国道28号線の有料部分として昭和29年に「県営フエリー」がスタート。その後昭和61年まで「公団フエリー」として運航。更に「明石・淡路フエリー」と経営が変わった。

皆さんも何度か乗られた思い出をお持ちだと思います。又一つ 昭和が消えていきます。

旅客用の播淡聯絡汽船(初期の名前)は、まだ健在です。

高砂の近代建築物(1)

旧高砂銀行本店(昭和7年築)。地方銀行としては豪奢な建物で、如何にも銀行らしい重厚な入り口が特徴的。昭和11年に神戸銀行と合併、その後太陽神戸銀行高砂支店と移り変わった。昭和55年に銀行としての役目を終え、現在は高砂商工会議所として使用されている。

歴史ある街並みの中心街に位置し、工業都市として発展を続けたかっての高砂の隆盛を象徴する建物として市民に馴染み深い。

これらの資料は近代建築Watch(Sawamura hideo氏)の使用了承を頂戴しました。

加古川の近代建築物(5)

村人の自慢 旧印南郡東神吉村役場

昭和3年(1928年)に新築された。農村に突然現れたモダンな建造物は大きな話題となった。当時は加古川町役場を除いて、公共施設は全て木造だったからだ。

近くの鉄筋建築の小学校と並んで、東神吉村は近隣の村から羨望の目で見られた。日本毛織印南工場の存在が大きく寄与したらしい。

惜しくも、2005年 老朽化のため閉鎖された。