加古川の近代建築物(7)

加古川大橋 大正12年の架橋。国道2号線の大きな橋です。かっては美しい石の高欄や立派な親柱を備えた橋でした。戦後の拡幅工事(2車線→4車線)によって橋上の意匠は変わってしまいましたが、橋桁や橋脚部は当時のままです。上流側に脚柱が追加されています。

戦後長く上流側の上荘橋(上荘村~八幡村)と加古川河口最下流に架かる相生橋(高砂町~尾上村)との間にはこの三か所しか加印地区を結ぶ橋がなく、特に交通の要衝として加古川大橋は昔も今も多くの人に利用されています。

写真はいずれも西岸側から東岸側(加古川中心部)を望んだもの。

国包の榎・椋の樹

国包は全国に知られる建具の町で、今も江戸期の面影を伝える風情が残る。ひときわ目立つのが「国包の築山」だ。そこにあるのが2本のエノキが1本のムクノキを挟みながら一体で成長した樹だ。高さ10㍍ほどで3本合わせた幹周りは7㍍はある。樹齢は約250年とされる。

水害から200年以上にわたり、集落の人々を守り続けてきた。上荘町国包

加古川市の高校が甲子園で2勝

市内・加古川北高校が選抜大会で2勝を挙げた。公立校唯一の8強進出だった。加古川市の高校としては、初の甲子園での勝利。同校の健闘を讃えたい。

昨年の秋季兵庫大会では、母校も対戦した。

1回戦 加古川北 4-0 加古川東

準決勝 加古川北 5-1 報徳学園

決勝 加古川北 5-9 神戸国際大付属。

秋季近畿大会

1回戦 加古川北 2-0 大阪・桐蔭

準々決勝 加古川北 5-9 奈良・天理

この善戦が選抜大会出場への決め手となった。

思えば 我が母校も数年前(平成18年・高59回生)、夏の県大会で公立校としては47年振りの4強進出したのは記憶に新しい。ずいぶん昔日だが、昭和26年(1951年)秋の近畿大会決勝戦で京都・平安に敗れた歴史がある(高4回生)。当時は枠が少なく、選抜大会への出場は叶わなかった。思い返すも痛恨事である。文武両道は至難の道なのだ。

荻野アンナさん、ご存知でしょう

作家、慶応大教授。そりゃぁ 知っているが突然の登場は何事ですか。

との疑問は当然ですよね。

実は加古川とはこんなご縁がございます。

お母さまが加古川高女卒(26回生・現加古川西高)。画家として有名な江見(荻野)絹子さんなのです。

アンナさんの随筆にも、「母は昔のことを語る時には関西弁なのです」とあります。先日 昔話を聞きながら旧制中学大先輩の奥さまとの対談中に、松筠会(しょういんかい・西高同窓会)の話となり偶然に知りました。

先(2月7日掲載)にご紹介した三島由紀夫さんや、今回の荻野アンナさんと云い、加古川と思わぬご縁があるものですね。いや それだけの四方山話です。

スタッフ注:江見絹子さん 1923年生まれ、明石市出身。現在は横浜市在住。日本を代表する抽象画家の一人で岡本太郎氏などと親交があった。

昨年末には姫路市立美術館で、現代郷土作家展『江見絹子 展』が開かれていた。

高砂の近代建築物(6)


キッコーマン高砂工場は昭和5年の操業開始です。千葉県野田市の同社が関西進出し全国規模の企業となった拠点。醤油製造では単一工場としては世界一の大工場です。

社屋はコンクリートに見えますがモルタル壁の木造二階建て。大正後期から昭和にかけて流行した表現主義によるデザインです。社運を賭けた新鋭工場に相応しい洗練と重厚さを併せ持つスタイルです。

今や世界的なブランドとなった同社の基盤を築いたのがこの工場でした。