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山手中学、神吉中学先輩の方々 ”後輩が頑張っています”

神戸新聞・東播磨版 11月26日 クリックしてください

加古川勢が男女そろい踏みで「全国中学駅伝大会」に出場します。12月18日に山口です。

応援してあげてください。

駅前の「翁介」再開する!

皆さん 学校帰りに立ち寄っていた、加古川駅前の「翁介」が再開するというビッグニューズです(笑)。懐かしい味です。帰郷された折にいかがですか。

スタッフ注:筆者の年代では親父(先代)の頃でした。この当主はまだ叱られながら手伝っていたものです(笑)。

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ぶらり加古川・・・史跡放浪記 七騎塚の碑(米田町)

七騎もなか

加古川橋西詰交差点すぐの「船頭」バス停から、堤防の細い道を降りたところに、この七騎塚の碑が建っています。1331年(元弘の変)で流された後醍醐天皇に従った塩治髙貞(えんや たかさだ)が、後に室町幕府に追われた時(暦応4年、1342年)加古川で戦闘となりました。主君を助けるため奮闘した家臣七人は討ち死にしました。この七人は主君を死守した忠臣と称えられ、この地に墓が造られ七騎塚と呼ばれるようになりました。又 対岸にある称名寺(加古川町本町)には頼山陽の書になる七騎供養塔があります。

余談となりますが、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」では、塩治判官、高師直と置き換え加古川本蔵なる配役も登場しております。

■スタッフ注:加古川市広報11月号から、岩坂純一郎氏(高20回)が担当されている欄から抜粋紹介しました。詳細は本文公式ホームページをご覧ください。

この七騎塚に因んだ郷土銘菓「七騎もなか」が加古川橋東詰の福中菓子舗で販売されています。このお店の大福は有名です。皆さまもご記憶ではないでしょうか。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記 石造十三重塔(平荘町)

平荘小学校の隣にある報恩寺の境内にすくっと建っているいる十三重塔は、花崗岩製で高さが564㌢もある大きな層塔です。鎌倉時代後期の元応元年(1319年)に建てられたものです。建立時期が明確で、伝来状況もよいことから県指定文化財になっています。

報恩寺にはほかにも石棺石仏をはじめ鎌倉から室町時代にかけての多様な石造文化財が残っています。

ご帰省のおりにでも、故郷のこれら中世の文化遺産にふれてみられては。

■スタッフ注:加古川市広報10月号・岩坂純一郎氏(高20回生)ご担当欄から、抜粋紹介しました。詳細は公式ページをご覧ください。

PCからサイマルラジオで「BANBANラジオ」を聴きませんか

加古川のラジオ局(播磨地域コミュニティFM局)です。播州弁が流れているかも(笑)

PCでサイマルラジオのサイトから「BAN-BANラジオ」が聴けます。

http://www.simulradio.jp/asx/BAN-BAN_Radio.asx

8月9日(火) 16:20分頃、シャンソン歌手・広瀬敏郎氏(高18回)が、ご自身の「歌手生活40周年リサイタル」を熱く語ります。

このリサイタルは10月8日(土) 地元加古川・ウェルネスパークで開かれます。東京では10月23日(日)草月ホールです。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記(教信寺の五輪塔・野口町)

平安時代初期に、教信という僧が加古川にいました。没後の草庵跡に観念寺が建てられ、後に教信寺と改称されました。14世紀前半に教信を供養する念仏会が始められ、これが700年もつづく野口大念仏会と呼ばれる有名な行事となりました。

また教信の供養塔として五輪塔が建てられています。花崗岩製の高さ2㍍強の大型のもので県指定文化財になっています。

■スタッフ注:加古川市広報8月号から抜粋紹介しました。岩坂純一郎氏(高20回)担当されています。詳細は公式HPをごらんください。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記・本岡家住宅(東神吉町)

本岡家住宅は江戸時代前期の建物で、東播磨地域の庄屋住宅の構造が良く理解できる貴重な建造物です。

現在地に移築以前は、八幡町下村にありました。元禄7年(1694年)の建築です。元禄時代の建築の粋を感じることができます。

■スタッフ注・この記事は加古川市広報7月号からの抜粋転載です。詳細は本文をご覧ください。

3・11被災地支援・加古川市広報誌から

広報かこがわ・6月号

加古川市では被災地への応援職員の派遣や、支援物資の輸送など復興支援活動を行っています。

福島県相馬市とは、清流会のご縁などもあって震災直後に素早い支援活動を行いました。下記 相馬市役所勤務の同窓生からのお便りも、再度ご覧ください。

<3月27日・小山健一氏(高48回)のコメント>

ぶらり加古川・・・史跡放浪記(宮本伊織と泊神社・加古川町)

泊神社(通称・木村神社)の山門

泊(とまり)神社は加古川で歴史の古いお社です。泊の名前から、かっては海辺だったのがわかります。

江戸時代の初期、荒廃していた神社を再建したのが、高砂市米田町に生まれたと言われる宮本伊織です。

伊織は明石藩十万石小笠原家の家臣・田原貞次です。当時、明石に滞在していた宮本武蔵に認められて彼の養子となり、名を宮本伊織貞次と改めました。吉川英治の小説でもご記憶がお有りだと思います。寛永九年(1632年)に小倉に移封された、小笠原家の筆頭家老にまでなっています。

伊織はもともと泊神社の氏子であり、小倉にあっても故郷の氏神の荒廃に心を痛め、資金を提供して一族でこれを再建したのでした。

再建から約三百六十年の風雪に耐えてきた本殿や神楽殿、江戸時代末期に建築された能舞台などの建物は、平成二十年に国の登録有形文化財に選定され、同年九月に加古川能が開催されました。宮本武蔵、伊織父子と加古川のご縁に思いをはせてください。

■スタッフ注:「広報かこがわ・六月号」から抜粋紹介しました。岩坂純一郎氏(高20回)が担当執筆されています。詳細本文は、公式HPでごらんください。

筆者などは、通称の木村神社で親しんでいました。秋の祭礼には”赤”(天狗)が大暴れして逃げまわったものです。加古川中学への通学路にもなっていて、前の宮川(泊川)でよく”じゃこ釣り”や”菱採り”などしていました。戦時中には境内に尾上飛行場の戦闘機が退避されていて、兵隊さんが番をしていたのも思い出されます。

加古川北高校の甲子園グッズ

加古川市の高校で甲子園初勝利した加古川北高校。今春の選抜大会では初出場ながら見事2勝を挙げ、公立校唯一のベスト8入りを果たした。その健闘をたたえたい。

高7回・Y氏から、同校のキーホルダーを甲子園土産に進呈された。同氏は母校でもないのに長駆、東京から甲子園へ駆けつけたそうだ。

「加古川市の高校が、甲子園初勝利の瞬間に、その場で立ち会いたかった」のがその理由とか。すごい野球フアンである。メジャー観戦にUSAまで足を伸ばす。それもその筈、彼は中学時代は県下でも強豪で鳴らした浜の宮中学のショートでキャプテン。何故か東高では野球部に入らなかったが・・・。

母校も近年(平成18年、高59回生)ではベスト4進出が快挙だったが、昭和29年当時の東高はつわもの揃いで、3年生の夏(高7回生)には、夏の予選・優勝候補筆頭との下馬評だった。雄途空しく甲子園出場は果たせなかった。この学年からは卒業後プロ、ノンプロ入りが多く出た。

その思いが今も胸中深く眠っているのか、還暦を過ぎた老青年を揺さぶる。