皆さん 学校帰りに立ち寄っていた、加古川駅前の「翁介」が再開するというビッグニューズです(笑)。懐かしい味です。帰郷された折にいかがですか。
スタッフ注:筆者の年代では親父(先代)の頃でした。この当主はまだ叱られながら手伝っていたものです(笑)。
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皆さん 学校帰りに立ち寄っていた、加古川駅前の「翁介」が再開するというビッグニューズです(笑)。懐かしい味です。帰郷された折にいかがですか。 スタッフ注:筆者の年代では親父(先代)の頃でした。この当主はまだ叱られながら手伝っていたものです(笑)。 加古川橋西詰交差点すぐの「船頭」バス停から、堤防の細い道を降りたところに、この七騎塚の碑が建っています。1331年(元弘の変)で流された後醍醐天皇に従った塩治髙貞(えんや たかさだ)が、後に室町幕府に追われた時(暦応4年、1342年)加古川で戦闘となりました。主君を助けるため奮闘した家臣七人は討ち死にしました。この七人は主君を死守した忠臣と称えられ、この地に墓が造られ七騎塚と呼ばれるようになりました。又 対岸にある称名寺(加古川町本町)には頼山陽の書になる七騎供養塔があります。 余談となりますが、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」では、塩治判官、高師直と置き換え加古川本蔵なる配役も登場しております。 ■スタッフ注:加古川市広報11月号から、岩坂純一郎氏(高20回)が担当されている欄から抜粋紹介しました。詳細は本文公式ホームページをご覧ください。 この七騎塚に因んだ郷土銘菓「七騎もなか」が加古川橋東詰の福中菓子舗で販売されています。このお店の大福は有名です。皆さまもご記憶ではないでしょうか。 加古川市では被災地への応援職員の派遣や、支援物資の輸送など復興支援活動を行っています。 福島県相馬市とは、清流会のご縁などもあって震災直後に素早い支援活動を行いました。下記 相馬市役所勤務の同窓生からのお便りも、再度ご覧ください。
泊(とまり)神社は加古川で歴史の古いお社です。泊の名前から、かっては海辺だったのがわかります。 江戸時代の初期、荒廃していた神社を再建したのが、高砂市米田町に生まれたと言われる宮本伊織です。 伊織は明石藩十万石小笠原家の家臣・田原貞次です。当時、明石に滞在していた宮本武蔵に認められて彼の養子となり、名を宮本伊織貞次と改めました。吉川英治の小説でもご記憶がお有りだと思います。寛永九年(1632年)に小倉に移封された、小笠原家の筆頭家老にまでなっています。 伊織はもともと泊神社の氏子であり、小倉にあっても故郷の氏神の荒廃に心を痛め、資金を提供して一族でこれを再建したのでした。 再建から約三百六十年の風雪に耐えてきた本殿や神楽殿、江戸時代末期に建築された能舞台などの建物は、平成二十年に国の登録有形文化財に選定され、同年九月に加古川能が開催されました。宮本武蔵、伊織父子と加古川のご縁に思いをはせてください。 ■スタッフ注:「広報かこがわ・六月号」から抜粋紹介しました。岩坂純一郎氏(高20回)が担当執筆されています。詳細本文は、公式HPでごらんください。 筆者などは、通称の木村神社で親しんでいました。秋の祭礼には”赤”(天狗)が大暴れして逃げまわったものです。加古川中学への通学路にもなっていて、前の宮川(泊川)でよく”じゃこ釣り”や”菱採り”などしていました。戦時中には境内に尾上飛行場の戦闘機が退避されていて、兵隊さんが番をしていたのも思い出されます。 加古川市の高校で甲子園初勝利した加古川北高校。今春の選抜大会では初出場ながら見事2勝を挙げ、公立校唯一のベスト8入りを果たした。その健闘をたたえたい。 高7回・Y氏から、同校のキーホルダーを甲子園土産に進呈された。同氏は母校でもないのに長駆、東京から甲子園へ駆けつけたそうだ。 「加古川市の高校が、甲子園初勝利の瞬間に、その場で立ち会いたかった」のがその理由とか。すごい野球フアンである。メジャー観戦にUSAまで足を伸ばす。それもその筈、彼は中学時代は県下でも強豪で鳴らした浜の宮中学のショートでキャプテン。何故か東高では野球部に入らなかったが・・・。 母校も近年(平成18年、高59回生)ではベスト4進出が快挙だったが、昭和29年当時の東高はつわもの揃いで、3年生の夏(高7回生)には、夏の予選・優勝候補筆頭との下馬評だった。雄途空しく甲子園出場は果たせなかった。この学年からは卒業後プロ、ノンプロ入りが多く出た。 市内随一の総合公園である日岡山公園には古代の文化遺産を数多く今に伝えています。「加古川市遺跡分布地図」によれば、戦時中に開墾されたりして消滅したものを含め、二十八基の古墳が確認されています。 山頂には宮内庁が日岡陵と指定し管理していることから、内部調査ができず詳細が不明な古墳があります。現段階では四世紀に造られた全長約八十㍍の前方後円墳とされています。 日岡山一帯は、古墳時代前期の前方後円墳の集中度が高く、その当時このあたりに大きな政治勢力が存在していたことがわかります。 ■「広報かこがわ5月号」からの抜粋紹介です。岩坂純一郎氏(高20回)が担当執筆されました。詳細本文は公式HPをご覧ください。 |
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