マドンナひろ子
彼女の早世を惜しみ、加古川東高・高16回の同級生たちの想いが綴られている。
数多くのエピソードの中から一つ二つを抜粋でご紹介します。
●たこ先生
卒業生の中でも原田峻一先生のお名前を覚えている人はほとんどいない。なのに『たこさん』と言うと、「ああ、あの美術の先生」と言うくらいよく知られているのだ。当時の東高では武道では「柔道」か「剣道」を、芸術では「音楽」「書道」か「美術」を選択することになっていた。ひろ子は、少し迷ったが「美術」を選んだ。それが彼女の人生を決定つけることになるとは思いもよらなかっただろう。
『たこさん』は素晴らしい芸術家だった。そして多くの生徒を有名美大に進学させた先生でもあった。
美術の時間に彼女たちは、中庭でスケッチしていた。その様子を、男子生徒たちが教室の窓から一斉に身を乗り出して見ていた。「おい、浜中出身のスターだよ。あんまり眩しくて、近寄れないぜ」
・・・・たこ先生が、中山ひろ子さんに対してあまり熱心に指導するものだから、『ひろ子命』の野郎どもが抗議行動を起こした。Z君を先頭に、数人の生徒が美術室になだれこんだ。「たこさん、いや原田先生。これ以上中山ひろ子に近づかないでください。もし、彼女に手を出したら、先生の排斥運動をしますから。いいですね・・・私たちは真剣で、必死の覚悟でお話ししているのです」。
●フォークダンス
東高の運動会のメインイベントは、最後にある「フォークダンス」だった。この時だけは大っぴらに男女が手をつないで踊れるのだ。女子生徒が圧倒的に少ないから、高1の男子生徒同士が手をつないでオクラホマ・ミクサーやコロブチカを不器用に踊る姿は滑稽以外の何ものでもなかった。
この時の話題は、誰が「中山ひろ子」と手をつなげるかでもちきりだった。三曲のダンスで何回パートナーを交換して目的を達成できる確率を高等数学を駆使して計算した人間がいる。彼は「隠れひろ子フアン」で、大阪大学の電子工学科を卒業して後に富士通FACOMのソフト開発で本社の中枢を担ったK君だ。そんなお堅い人が、筆者に対して「ひろ子抄を早く書き上げて、一番先に私に見せるように」と、命じたのです。
運動会当日、待ちに待ったフォークダンスが近づいてきた。水道で手の汚れを洗い清めてその時を待った。後少し、後五人・後三人・後一人という時にプツリと曲が終ってしまった。その悔しさは、一億円の宝くじの一桁違い以上の思いだったかも知れない。
その他色々と、マドンナをむざむざと異国の男性に奪われた無念さが溢れています(笑)。
■スタッフ注:この「ひろ子抄」と「遺作画集」は、文中にも登場している栗山弘之氏のご好意で清流会東京支部に寄贈されております。貸し出しいたします。事務局までどうぞ。
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