過去のニュース

被災地・同窓生から、お便り(9)

母校生写真撮影に協力頂いた双葉写真館

●5月10日 仙台市太白区・高5回生 今も変わらぬ女子生徒さんのセーラー服の制服を見て、懐かしさ倍増です。ニシカワパンも東加古川駅前にお店がありました。今年 同窓会で加古川へ帰ります。

●5月10日 千葉県旭市・高14回 津波被害が報じられ、当地の名前も一躍知られましたが幸い大丈夫でした。一度 東京支部総会にも出かけたい。

●5月11日 茨城県取手市・中16回 先日のお見舞い状に続き、本日は心尽くしの郷土の見舞い品を、又、激励文入りの写真をご送付戴きまことに有難うございました。厚くお礼申しあげます。幸い自宅の直接の被害は軽かったのですが、階上階の貯湯機が転倒しそのため水漏れ被害で部屋が水浸しになりました。

今度の震災で”絆”と云う言葉が大きく取り上げられていますが、私も前から感じていましたが加古川東高卒業生の”絆”の強さを今更ながら痛感した次第です。息子達にも自慢したいと思っています。

清流会々員の皆さんのご繁栄を祈念致します。先ずはお礼まで

●5月11日 茨城県守谷市 中12回 この度は結構な物を戴きありがとうございました。幸いにも無事で元気で暮らしております。ありがとうございました。

加古川東高校同窓会ご一同さまによろしくお伝えください。お礼まで

■スタッフ注:双葉写真館さんは、社長・山田和成氏(高16回)、山田育郎氏(高19回)、山田秀樹氏(高21回)と清流会ご一家です。今回、大変にご協力を頂戴しました。

被災地・同窓生から、お便り(8)

ニシカワ食品 鬼追い饅頭

●5月8日 茨城県鹿嶋市・高29回生 このたびは心温まるメッセージに加え結構なものを送って頂きましてありがとうございました。さっそく家内(高32回生)ともどもおいしくいただきました。

あらためて東高の強いきずなを感じ、良い母校を持った思いと、よき伝統を守り続けている卒業生の皆さまおよび在校生それから先生方に感謝するとともに、誇らしく思った次第であります。

当地は東北に比べると被害は軽く家の修理はいくらか残っているようですが、ほぼ普通の生活に戻っております。会社にほうも一時は大変でしたが応急復旧はほぼ完了し生産も通常の9割程度まで戻ってきております。

これからは福島原発がはやく終息し、東北の復興を祈るばかりであります。最後になりますが、今回 いろいろとお骨折り頂いた同窓生の方々、およびニシカワ食品さま、小林さま、本当にありがとうございました。

●5月10日 茨城県守谷市・高22回生 昨日、同窓会からの贈り物を受け取りました。開けてビックリしましたが、震災に遭われた同窓生に対しての後輩諸君と皆さまのご厚志と承りました。清流会の結束と東高諸君のお気持ちに触れ「東高バンザイ!」の心境です。まことに嬉しく有難く頂戴致します。

私の場合、おかげさまにて実質的被害は何もなく、無事でありました。懐かしいニシカワパンの方々や皆様方に、何卒よろしくお伝え頂ければ幸甚です。

●5月10日 仙台市青葉区・高17回生 このたびは結構な品と在校生たちの震災応援メッセージ写真を頂戴し、いたみいります。三笠をなつかしく頂きました。大変ありがとうございました。

3・11の地震以来、余震に怯える日々で、仕事上仕方なく被災を受けた建築物と戦っておりますが、幸い自宅のある青葉区は最小の被害で済んでおります。個々の建築は、それなりに何らかの被災をしており、材料や人の手配の関係上なかなか修復に至らないものがありますが、生活面ではそれほどの不自由はほとんどありません。

宮城は神戸のとき、ペアリングを組み、相互に助け合う約束が出来ていて、大勢の応援団が兵庫県からも来ており、ときおり見かける姫路ナンバーの車に涙する日々でありましたが、一日も早く立ち直って皆さまの応援にお答えできるようにがんばります。心から今回の応援にお礼を申し上げる次第です。ありがとうございました。

なお、ニシカワ食品・西川隆雄さまにもよろしくお伝えくださいますようお願い申し上げます。

被災地・同窓生から、お便り(7)

常磐線特急 ひたち

●5月8日 茨城県ひたちなか市・高11回生 昨日は予期せぬ在校生からの励ましのメッセージと共に、郷土の鬼追い饅頭を送付戴き有難うございました。

写真には震災復興のメッセージが込められており、勇気づけられますが、学年全員が一堂に会した写真も貴重な資料となるものと思います。また 饅頭は美味しく戴きました。有難うございました。

目の前にある自動車用のICを作っているルネサスの半導体工場は震災以降1000人もの人達が昼夜兼行で作業していましたが、一部ラインが動き出したとかで心なしか外来職人が減ってきております。常磐線も4月28日から特急が走るようになりました。

●5月8日 青森県六ケ所村・高5回生 みちのくも桜の訪れがあり春の香りがする今日この頃でございます。本日は思いがけぬプレゼントを頂戴致しました。びっくりするやら嬉しいやら、ただ々感謝の一言でございます。当地は他の三県に較べて被害は少なく、私の住まいする六ヶ所村も海側は当日と翌日の避難はありましたが、さしたる被害はございませんでした。

すぐ近くには再処理工場がありますので地盤がしっかりしております。停電と電話の不通が一日半続きましたが、それ以外のインフラもストップする事なくすみました。近くのスーパーの棚は空っぽになりましたが、昭和20年3月の神戸大空襲を経験した身には何ほどのことと云う思いでした。六十年前の事を思えば現在は手を差しのべてくださる人達も多く、日本は立ち直ることが出来るでしょう。母校から遠く離れている身には何より嬉しい便りでした。

同期生が、自分たちのふるさとはこの同窓会だと何時も話しておりました。孫のような後輩達の元気な写真にも元気づけられました。東京支部にも出席しなくなって久しいですが、このようなお心遣いを頂いて本当に嬉しく思っております。どうぞ皆様によろしくお伝えくださいませ。

●5月8日 仙台市泉区・高21回生 お陰さまで、私共の地域においては、先月上旬には全国からの災害派遣応援部隊さまによりライフラインの全てが復旧し、いつもの生活に戻ることが出来ましたのでご安心ください。

後輩諸君からの激励のエール、ニシカワ食品さまからの心温まる結構なお品に感謝申し上げます。母校のますますの躍進、清流会のご繁栄を心から祈願申し上げます。まずはお礼まで。

被災地・同窓生の皆さんから、お便り(6)

3・11から約2カ月経ちました。その後、寄せられたお便りを、抜粋でご紹介いたします。

(尚 日付けは到着した日です)

●5月6日 栃木県那須湯本町・高2回生 お見舞いの品、ありがたく拝受しました。同窓とはありがたいものですね。若い人たちの写真は、同窓のつながりを如実に知らしめるものとして、これほど強いものとはこのたび初めて知りました。関係のない人たちが聞けば、甘っちょろい感傷と笑うでしょうが、当事者はその感傷に浸れる特権者です。

この度の心温まる贈り物に、どんなににか嬉しくありがたく思っていることか。こんなにご心配いただくのがただただ申し訳なく、恐縮の極みです。どうか、小林義信さん、谷正人先生と高2の諸君、山田和成さん、西川隆雄さんの皆さんに、那須の古い同窓生からの感謝の気持ちをお伝えください。

●5月7日 宮城県大崎市・高25回生 当地では桜の季節も終わりに近づきました。あの寒かった震災の日が遠い昔のことのように思われます。全国、全世界からの励ましと援助で、私の住む内陸部では徐々に日常の生活に戻りつつありますが、震災前と現在との間に空白の一カ月がある酔うな感じがしております。

この度は、「鬼追い三笠」、「京・漬け物」、「母校生からのメッセージ写真」をお送り下さりありがとうございました。故郷を、古都を思い起こす味わいでした。食べ物の味わいは舌でなく心で感じるものだと実感いたしました。私は東北大生の時代に宮城県沖地震も経験しておりますが、今回の震災については前回とは異なり復興は一世代では無理だと感じております。我々の世代が復興の基礎を築き、次の世代につなぐのが役割かと思います。

そのような意味では、後輩の皆さまからの「メッセージ写真」は大きな励みになるものでございます。小林さま、西川さまをはじめ、関係された同窓生の皆さまに厚く御礼申し上げます。私も母校の名に恥じぬよう被災地の復興に尽力して参ります。

●5月7日 茨城県竜ヶ崎市・高17回生 懐かしい三笠をお贈りしていただき有難うございました。皆さまの暖かいお心遣いに感謝致します。近くでは地盤沈下したところもあります。連日の余震に慣れて来ましたが、やはり原子力発電が怖いです。今回びっくりしましたのは、高3回の中西千朗(浜の宮中先生)先輩が50年数年ぶりに電話をかけていただき感激しました。ふるさとからまだ覚えてくださる方がいるということを知り、あらためて加古川東高の卒業生で良かったと思いました。

被災地復興にパイプを!高見浩三氏(高25回)

(C) 神戸新聞社

3・11大震災後、同窓生諸氏もそのお立場、お立場で奮闘されています。皆さまご苦労さまです。

神戸新聞・経済面 4月21日記事をご紹介します。

スタッフ注:高見氏は上荘町のご出身です。

旧制中学、旧制高女 先輩連の男女共学・騒動記(4)

抽選風景

加古女の巻(下)

抽選順位を定めるのに心臓がどきどき、一寸早過ぎはしないかと人事乍ら気がもめる。AかB若しくはCと組を分ける所に進む。前より遥かに、気持ちが引締まざるを得ない。堅くなって背丈が縮んだのか札の置場が高過ぎたか背伸びの必要な人もあり、如何な冷静家にても中の札を掻混ぜてよりとるわけには行かぬ窮屈な所だった。ここを抜けると直ぐ各自の籤が指す控室に向かう。

この中で大半の人の気を目で読みとると次のよう・・・・第三者でない私にも馬鹿らしい。例えば「どうか東でありますように」とか「Bが残留します様」等いう具合に神に願掛けをし始めるからたまらない。平素の茶目嬢がこうであるから感傷的な人達になるとすっかり元気を失い卒倒した類もあり、半数以上は全く不安の体で何處も同じ活気がない。運命の籤を引きに行った十人の代表は如何様か。

後に残った者は考える余地もなく「C」と何處からともなく聞こえる聲にすっかり詮める者が多くなった。C組では様々の音聲を発する。が然し折角一部の人が喜んだのも束の間、「Bだ」と次の放送があるから滑稽である。「A」と大きな聲、今度こそ確からしい。「どうしよう○○さんはAや」「いやあ嬉しい」と一度にどっと騒ぎ始める。一人が歓聲をあげると續いて二人、三人、嬉し、悲しと思いの儘を語るのも聞くのも面白くゼスチアを見るのが変化に富んで興味がある。希望の叶った人は躍上がらんばかりに喜んだが、運命の皮肉は何處迄も附纏って親愛なる友とえにしの綱を切られた者も少なくない。この日は深く感じて泣く人も先ずなかった。

この抽選は當日よりも寧ろ明三十日に大きな打撃となった。惜別の辞は高く低く人の心を捉え感動の中に終った。それにも増して對面式の朝、師と友を送る校庭は涙と雨がマッチして今日を限りの校歌の齊唱に一層の懐かしさと哀愁を感じた。「小夜奈良」別離の言は短かった。が短ければ短い丈に余韻は長く行く者と送る者の胸に傅わった。(記者の見た真相)終

旧制中学、旧制高女 先輩連の男女共学・騒動記(3)

抽選風景 加古女の巻(上)

私達が朝禮を行っている間に、入學考査にも似たる厳粛な抽選場が設けられ、誰が心か明日からの運命を定める殺風景なこの場所にささやかな一輪の花が揺らいでいた。先生方の御指図に従って各學級長は廊下に出で控室に胸をわくわくさせ落着かぬ風態でいる人たちに成績を加味したグループの編成の編成の連絡をとり始め、「次は私位が呼ばれる頃かしら」と人心を愈々動揺させた。

「窓から首を出してはいけない」と再三注意をされ乍ら、目の数が増し、下顎と頭上が重なりあって廊下で組を作っていらっしゃる先生の方へ真剣なというか、不安というのか、鋭い求める眼が集中して行き遂には廊下に七、八人どやどやと押出されて来る状態であった。

蒸暑い天候に焦燥を交えて物苦しい雰囲気の室内には又風變りな人も居て、お得意の播磨言葉でぺちゃくちゃと落ち着き拂ったもの、数回名を呼ばれても我事と気附かなかったのも割合数があった。始めからそわそわしていた家庭科七人連れが結局後に残り、やっと私達の番がと喜び勇んで登場した。では次にこの人達と抽選の一場を覗いてみよう。つづく

旧制中学、旧制高女。大先輩連の男女共学・騒動記(2)

<抽選風景> 加古中の巻(下)

次いで記者は第三校舎に高二を訪れた。人数の少ない高二では最早二分割は完了し、最後の決定、西行か残留か?

「この封筒二十枚の中には西と書いてあるのが十一枚で白紙が九枚ある。・・・・」

偉大なるXを秘めた白封筒を眼前に望月先生の辯。背後に父兄代表・學校代表・二年各組主任の方々が座を列して居られるのがモノモノしい感じだ。やがて撰ばれたAB各十名は拍手と聲授の内に勇躍その第一歩を踏み出した。左へ一封右に一封、裁断の魔人は刻々と近づく。後十枚・・・九枚・・・見送る生徒は流れ落つあせも拭わず、撰者の顔も心なしか青白く見えた。

後四枚・・・・三枚・・・・一通々々見送る先生の眼、指も無量の感慨を含んで幾らか血走っても見えた。後一枚・・・父兄が立たれた。代表の手は今こそ我々人生の悲しき一頁の思い出に筆を下さんとしているのだ、拍手に絶えられなくなった全生徒の興奮は極度に達し、叫喚と混乱は机も押し倒さんばかり。かくて一分・・・・・紛糾錯綜の内にAだ!否!Bだ!否!・・・・・遂に決定!!

A。Aだ!どっと上がった喚聲と大拍手。あぁ遂に運命の神は采配を高々と振った。斯くして此處に二十幾年自治創造を目的とし質実剛健を持って校風とした我が加古中は生木を割かれるごとく真二つに分割され、永遠にその名を清き加古の水底深く沈淪せしめたのである。

「去らば母校よ、なつかしの友よ、我等去ればとて永久に忘れる事あらず否、その薫香をして西高校に花咲かせ馥郁たる芳香を校内に充たさん、諸君!張り切って行こうぜ・・・・」

「あぁ行けや君、とこしえの友よ。我ら哀惜の念せまればとていたずらに別涙をそそぐに非ず、共に前途は遼遠なり、しかし大望は大人を作る。希望の光を認め、邁進せば万斛の陰雲又何かあらん。自由堂々闊歩せよ。」

お互いに握り合わされた腕と腕、組み合った肩と肩、万感胸に迫りて言葉なけれど誠意は明らかに相通じた。折から正午のサイレンが哀韻として全校庭を震わせ此處に歴史的行事が全くの終わりを告げたのである。

次回は加古女の巻

旧制中学、旧制高女。 大先輩連の男女共学・騒動記(1)

古い校内紙(清流新聞)を頂戴しました。当時(1948年)の先輩の方々(高4回生前後)の戸惑い、悲喜交々のご様子が描かれています。敗戦国の試練、思いもかけぬ学制の激変、戦後の波に翻弄された大先輩達の若き青春の日々を偲んでください。

一面、束縛から解放された戦後の明るさは、石坂洋次郎氏の名作「青い山脈」の世界を彷彿とさせます。原節子、池部良、杉葉子、若山セツ子、龍崎一郎、伊豆肇ってわかりますか。わかる方、筆者と世代が近いですね。(爆笑)

<抽選風景> 加古中の巻(上)

昭和二十三年六月三十日午前九時二十幾分。男女同権。教育の機會均等の美名のもと私情を超越した我が加古中は、鳴り響く控所集合のサイレンを合図に今や東西別け目の決戦の火蓋は切って落とされたのである。

校長訓示の後、選場の指定が各學年にあり、併中三年は講堂へ、新高二年は工作室前へ、新高一年は其の儘控所に其々分割され、記者は高一を観るべく先ず控所に戻った。

先生が用意の封筒を取りに職員室へ行かれた間、鐡棒にブラ下がる者、ABを口論する輩、猟犬の如く所狭しと走り廻る群童-。全くの騒々しさである。

先生が大きな抽選箱を抱えて入ってこられた時も、ソッと指揮台に吸いつく黒帽の山の中で「先生、今から紙芝居ですかあ」と大笑する暢気者も居る有様で全体として割合平然たる態度であった。・・・・・・。

「AとBに分割した後は如何なる理由があろうとも絶對に變更は許さない」・・・・後藤先生の幾らか哀感のある言葉にはさすがに六百の眸は一点に集中し個々の表情には寂寞感が浮き上がり舎中何となくシンミリとした。・・・・

次いで分割。指名され、六人グループを組んだが最後 善悪親友の別を問わず運命に翻弄され一對の相違は東西の相別れる原因となるのだった。

以下 つづく

■ 昨年11月3日記事「高4回生・アフター喜寿同窓会」にも、その辺りが触れられています。

被災地・同窓生の皆さんから、お便り(5)

4月2日 栃木県那須町・田中一郎氏(高2回生) 「前略 震災見舞いのお便り拝誦、ありがとうございます。あの大激震が襲った時、凄い家鳴りの中、『大津波が来ます。避難してください。』とテレビがはりつめた声でくりかえしていました。あれから三週間経ちますが、被災者が『なにもいえません』と何度も言っています。大自然の巨大な力をまざまざと見せつけられ、残された惨状を前に思考力は疎か感情や感覚さえ萎えてしまった。いや考えることが多くて整理がつかない。悲しい諦めなど胸の中に閉じ込めたから、等々想像するだけです。影響力のある言葉ですね。原発も大変ですね。思うに政治家もこの事態に及んで慌てて勉強したという印象、学者も『知見が』どうとか、事故後の対処法など過去の事例がないことで適切、適確な意見を出せないように思える。だから世界中、慌てふためいていますね。命を張る現場で働いている人達のお陰で何とか収束に向かっているように思えるのですが。冗句くだくだとご容赦あれ。頓首」

4月3日 茨城県水戸市・北村(金沢)千栄子氏(高21回生) 同期生からご連絡頂きました。「ご本人は元気です。神戸のお嬢さん宅へ避難されています。」

4月4日 福島県相馬市・大西幸広氏(高34回生) 「大西です。現在は本籍、住民票所在地は相馬市。実質は仙台市在住です。単身赴任で週末だけ相馬に帰る生活です。この度は、心温まる封書頂きありがとうございました。私は、大学卒業と同時に、就職先の職場が相馬市となり、それ以来ずっと相馬に住み続け丁度人生の半分を過ごしたことになります。幸いにも、私の家は中心部より高台にあり、物的にも人的にも(色々ありましたが)被害なく助かりました。20年以上住み続けていますと、親戚、友人も多く、非常につらい結果にも遭遇して心を痛めています。福島県は、原発の関係もあり、報道関係も余り入っていないので見過ごされがちですが、宮城県、岩手県と同様に無残な状況です。原発周辺は捜索の手も入っていないと思います。今回の件で、小山さまが加古川東出身だということを初めて知りました。現状、相馬のために何も出来ていませんが、これからの復興は長い時間を要すると思いますので、徐々に永く協力してやっていこうと考えているところです。」