過去のニュース

「昭和の戦争とおじいちゃん」(7・完)竹内 隆氏(中21回)

旧制加古川中学校正門

旧制加古川中学校正門

 

旧制加古川中学

右は講堂。左は第一校舎。

ー卒業ー六・三制-男女共学ー

昭和23年3月、旧制中学5年生で卒業しました。

そして4月から新しい教育制度の六・三制が始まりました。

新制度では小学校の六年生は同じですが、高等科2年を1年延長して新制中学を3年としました。そして高等学校を3年、大学を4年としました。

 

 

 

男女共学にするために加古川中学と加古川高女の教師と生徒を二分し、誕生した西高と東高。くじ引きで決定した!昭和23年7月1日、この日が運命の日となりました。

私の卒業年次は中学21回生、高校1回(昭和24年3月卒業)も同級生となります。(完)

 

旧加古川高等女学校

旧制加古川高等女学校

 

「昭和の戦争とおじいちゃん」(6)竹内 隆氏(中21回)

終戦ー終戦ー 昭和20年8月15日

「堪エ難キヲ堪エ、忍ビ難キヲ忍ビ」天皇の玉音放送です。これで戦争が終わりました。学校からは、終戦に関する連絡は何もありませんでした。学校工場だった体育館は、旋盤などの工作機械が持ち去られガランとしていました。

終戦翌年、昭和21年4月、中学4年生になりました。軍国主義で固められていた学校がデモクラシーの旗印を掲げてスタートすることになりました。教師の中では配属将校がまず首になり、教練や武道も禁止されました。敗戦国の哀しき姿です。

戦艦ミズーリ上での降伏文書調印。勝者はポケットに手を入れたまま。

戦艦ミズーリ上での降伏文書調印。勝者はポケットに手を入れたままの傲慢な態度。敗戦国の屈辱的な一葉です。

 

 

 

 

 

 

 

 

ー戦後の高砂線ー

高砂北口駅でレカーに乗ると、始発の高砂駅ですでに定員オーバーになっています。山陽電車からの乗り換え組が乗り込むので、ぎゅうぎゅう詰め。積み残しも常時でした。戦時中には、女学生が座席を取るということはほとんどありませんでした。戦後もしばらくすると女学生が自由に座席を取るようになり、向かい合わせの4人席で加古川高女の女生徒たちと一緒に座ることもありました。

レカーは尾上駅で明石方面から来た山陽電車の客を乗せて北へ曲がります。北在家駅ではほとんど乗降客はありません。別府軽便鉄道と接続する野口駅を出て、山陽本線を越える跨線橋にさしかかるとエンジンがうめき声をあげ今にも停車しそうになります。頂上を過ぎるとエンジンを停めたまま惰力で加古川駅の構内へ向かって下っていきました。

ぎゅうぎゅう詰めの通学でしたが、戦時中と違って車内は明るく華やいでいました。

旧高砂北口駅

旧高砂北口駅

 

 

 

 

 

 

 

旧尾上駅

旧尾上駅。上は山陽電車・尾上の松駅。

 

同窓生から国会議員、二人目が誕生・浜野喜史氏(高31回)

浜野喜史(よしふみ)氏・高31回

浜野喜史(よしふみ)氏・高31回

平成25年7月21日の参議院議員選挙で、浜野喜史氏(民主・比例)が当選。浜野氏、松陽中→加古川東高→神戸大学・経済学部→関西電力。都内在住。

同窓生からの国会議員は塩田 晋氏(中15回)以来、二人目となる。塩田代議士は志方出身、昭和54年・旧兵庫3区で初当選。通算5期を勤めた(民社党・新進党)。

同窓生からの国会議員は塩田氏の政界引退(平成15年)以来、久々のこと。浜野氏の当選を祝い、今後のご活躍を期待する。

塩田 晋氏(中15回)

塩田 晋氏(中15回)

 

「昭和の戦争とおじいちゃん」(5)竹内 隆氏(中21回)

ー加古川空襲ー昭和20年2月12日

空襲警報が発令され、校舎を出て待避するよう指示がありました。いつも空振りに終わっていますから、この日も、なんの緊張感もなく校舎から外に出て、運動場のポプラの蔭に立っていました。

その時突然加古川駅の方角から家の屋根をかすめるように艦載機が姿を現しました。

運動場にいた生徒が蜘蛛の子を散らすように校舎や塀の蔭へ逃げ込んで身を隠しました。

艦載機はW型の主翼とずんぐりした太い胴体からグラマンF4Uコルセアだとすぐわかりました。そのグラマンが、運動場に突っ込むような姿勢で迫ってきてババババン、ババババンと機銃掃射をしました。低空飛行だから、操縦席の飛行士のヘルメット、飛行メガネ、メガネの奥の青い目までが見えました。グラマンは高度を下げたまま飛び去って見えなくなりました。

・・・尾上飛行場の松林の向うからグラマンがフイッと姿を現したのです。あっという間もなく、グラマンは、鶴林寺の塔をかすめて舞い戻ってきました。今度は機銃掃射をすることもなく体育館の屋根をかすめて飛び去りさっていきました。このとき、学校がこうむった被害は、体育館の屋根の明り取り窓に薬莢が当たってできたわずかな破損だけでした。しばらくして、駅前の日毛のグラウンドで女工がやられたらしいということが伝わってきました。

昭和20年の7月になると加古川へも艦載機が繰り返し飛来してきました。

スタッフ注:加古川市などの古い記録には、艦載機(グラマン)による銃撃は次の3件が記されています。

7月23日、加古川駅を機銃掃射。7月24日、3機が加古川駅の急行列車を銃撃し死者1名その他負傷者数名。7月30日、日毛加古川工場と寺家町3丁目に爆弾投下。死者2名その他負傷者数名。

尾上誠蔵氏(高28回・NTTドコモ) LTE戦略を語る

日経トレンディー・8月号

日経トレンディー8月号の「キーパーソンに聞く」に登場。

NTTドコモ・開発センター所長としてLTEの標準化やその技術開発に大きく携わる尾上氏は、更に先を見据えた技術開発を熱く語る。

競争が一層激しくなる今後、より強力なネットワークを作り上げていきたいと意欲を見せる。

詳細は同誌をご覧ください。

 

2013パリ祭・広瀬敏郎氏(高18回)

今年の巴里祭はエディット・ピアフが亡くなって50年目にあたる。大々的に彼女の曲を取り上げます。

広瀬氏 in paris

 

日本にはひばりがいて、フランスにはスズメがいて、イタリアにはカラスがいた。

7月13日(土) 渋谷NHKホール「第51回巴里祭」

7月14日(日) 渋谷NHKホール「第51回巴里祭」

7月15日(月) 小田原市民会館「第1回小田原パリ祭」

7月19日(金) 神戸文化ホール「神戸巴里祭」

7月20日(土) 岡山シンフォニーホール「岡山巴里祭」

7月14日はフランス革命があった日。何故かシャンソン歌手が忙しい時期。頑張りまくるそうです。

「昭和の戦争とおじいちゃん」(4) 竹内 隆氏(中21回)

 

ー勤労奉仕・農家の手伝いー

昭和19年1月に「緊急学徒勤労動員要綱」が公布され、今年は、勉強をやめて軍需工場やその他で働きなさいということになりました。

学校では勤労報国隊を設置し、男子生徒は勤労学徒、女学生は女子挺身隊員と呼ばれて軍需工場へ派遣されました。

農家での勤労奉仕は、農繁期に出征農家の田植えや稲刈りをお手伝いするのはやっていましたが、食糧増産は銃後の大切な勤めで当然の義務だと自覚していました。

加古女と一緒の時もあり、握ってくれた銀シャリの握り飯はおいしかった。

ー尾上飛行場ー

飛行場での勤労奉仕の作業内容は、格納庫での機体整備、周辺の松林に飛行機を隠すための掩体壕作り、飛行機を移動する手伝い、松根油をとるための根っこ掘りなどでした。

飛行場には、いつも学校で見慣れている訓練飛行の赤とんぼや九七式戦闘機が駐機していました。

赤とんぼは主翼も胴体も赤色の布張り複座で、前の席に練習生、後部座席に教官が乗って初歩の飛行技術を習得するための訓練機です。

学校の近くに飛んで来る赤とんぼの中には、吹き流しを曳いているのがありました。その吹流しは、九七式戦闘機の射撃訓練の標的です。

ときには、吹き流しが校庭に堕ちてくることがありました。飛行訓練は常時、学校の近くの空中で行われていました。

いつも飛行機を眺め、教室で勉強している時も爆音を聞いていました。

 

 

井本史夫氏(高16回)・「シニア犬のケアと介護」

井本史夫氏(高16回)

経験豊富、動物医療の第一人者・井本動物病院院長・井本史夫氏が、永年の家族の一員”シニア犬とのいい時間”を説く。

NHKテレビテキスト・2013年7月―8月 「まる得マガジン」が6月22日から発売されています。

<Eテレ放送時間>

7月1日~11日 月~木 21:55~22:00 再放送は翌週 月~木 11:55~12:00

8月19日~29日 月~木 21:55~22:00 再放送は翌週 月~木 11:55~12:00

 

まる得マガジン・2013年7月-8月

以下はページの一部です。

中山ひろ子さん(高16回)・「ひろ子抄」

マドンナひろ子

彼女の早世を惜しみ、加古川東高・高16回の同級生たちの想いが綴られている。

数多くのエピソードの中から一つ二つを抜粋でご紹介します。

 

 

●たこ先生

卒業生の中でも原田峻一先生のお名前を覚えている人はほとんどいない。なのに『たこさん』と言うと、「ああ、あの美術の先生」と言うくらいよく知られているのだ。当時の東高では武道では「柔道」か「剣道」を、芸術では「音楽」「書道」か「美術」を選択することになっていた。ひろ子は、少し迷ったが「美術」を選んだ。それが彼女の人生を決定つけることになるとは思いもよらなかっただろう。

『たこさん』は素晴らしい芸術家だった。そして多くの生徒を有名美大に進学させた先生でもあった。

美術の時間に彼女たちは、中庭でスケッチしていた。その様子を、男子生徒たちが教室の窓から一斉に身を乗り出して見ていた。「おい、浜中出身のスターだよ。あんまり眩しくて、近寄れないぜ」

・・・・たこ先生が、中山ひろ子さんに対してあまり熱心に指導するものだから、『ひろ子命』の野郎どもが抗議行動を起こした。Z君を先頭に、数人の生徒が美術室になだれこんだ。「たこさん、いや原田先生。これ以上中山ひろ子に近づかないでください。もし、彼女に手を出したら、先生の排斥運動をしますから。いいですね・・・私たちは真剣で、必死の覚悟でお話ししているのです」。

●フォークダンス

東高の運動会のメインイベントは、最後にある「フォークダンス」だった。この時だけは大っぴらに男女が手をつないで踊れるのだ。女子生徒が圧倒的に少ないから、高1の男子生徒同士が手をつないでオクラホマ・ミクサーやコロブチカを不器用に踊る姿は滑稽以外の何ものでもなかった。

この時の話題は、誰が「中山ひろ子」と手をつなげるかでもちきりだった。三曲のダンスで何回パートナーを交換して目的を達成できる確率を高等数学を駆使して計算した人間がいる。彼は「隠れひろ子フアン」で、大阪大学の電子工学科を卒業して後に富士通FACOMのソフト開発で本社の中枢を担ったK君だ。そんなお堅い人が、筆者に対して「ひろ子抄を早く書き上げて、一番先に私に見せるように」と、命じたのです。

運動会当日、待ちに待ったフォークダンスが近づいてきた。水道で手の汚れを洗い清めてその時を待った。後少し、後五人・後三人・後一人という時にプツリと曲が終ってしまった。その悔しさは、一億円の宝くじの一桁違い以上の思いだったかも知れない。

その他色々と、マドンナをむざむざと異国の男性に奪われた無念さが溢れています(笑)。

■スタッフ注:この「ひろ子抄」と「遺作画集」は、文中にも登場している栗山弘之氏のご好意で清流会東京支部に寄贈されております。貸し出しいたします。事務局までどうぞ。

「昭和の戦争とおじいちゃん」(3) 竹内 隆氏(中21回)

―武道-

そのころの中学校では、正課の体育の時間に柔道と剣道の両方を習い、教練の時間には銃剣道を稽古していました。

剣道や柔道を稽古する大きな武道館は、体育館とは別棟で、運動場にありました。

運動場後方の大きな建物が武道館

武道館の中は、板張りの剣道場と畳敷きの柔道場が、ひと続きの大広間になっていました。柔道は宮川徳一先生(徳さん・ちょびひげ)でした。白帯、茶帯そして黒帯の先輩は先生より恐かった。

別室は、手入れの行き届いた三八式歩兵銃や木銃が収納してある兵器庫になっていました。

 

-農業実習-

農業という時間がありました。

学校には、運動場を囲った低い塀の向こうに菜園程度の実習園がありました。

実習園の向こうに続く田んぼの中に高砂線の野口駅があり、別府からの軽便鉄道が接続していました。

高砂線は、高砂の軍需工場へ行き来する貨物列車が往来していて、別府線は神鋤印(かみすきじるし)の多木肥料のある町まで通じていました。

農業の先生に、サツマイモのつるの植え方には水平植え、斜め植え、舟底植えなどがあることと、そのうち、舟底植えの収量が最もよいことを教わりました。

農林一号の苗はお盆の頃になると、畑が地割れするほど大きなイモが育っていました。

■スタッフ注:写真は旧制中学アルバムから拝借しました。