加古川の近代建築物(4)

印南野台地を潤した水路橋 「平木橋」

加古川市の東に広がる台地は高台であったため、古くから農業用水の確保に苦労してきました。そのため 多くのため池が造られ、疏水が引かれるなど独自の灌漑が発達しました。

「平木橋」は旧野口村(現加古川市野口町)の新田に水を引くために、遠く淡河川、山田川からの疏水事業の最下流に位置する、大正4年(1915年)に完成した水路橋です。
レンガと御影石を組み合わせたモダンなデザインは、歴史の重みを感じさせてくれます。かっては神野町石守の、行くには衣服が破れるのを覚悟して近づかなければならない程の雑木林に忘れられたようにありました。

道路が付近を通過することになり、その工事で壊される運命にありましたが、保存運動が高まり無事に移築復元されました。神戸大・神吉和夫教授(高18回)が専門的な助言をされました。

現在は、野口町水足公会堂近くの「前ノ池」の中にめがね橋のように復元されています。

「旧陸軍・加古川飛行場の記憶」(4)

三菱製紙のくびれた煙突 高砂市高砂町栄町

今も昔も加古川河口右岸近くに、にょっきりと立ち続ける三菱製紙高砂工場の風変わりな煙突は、旧陸軍加古川飛行場(尾上飛行場)の面影を伝える唯一の「戦跡」となっている。

かって煙突は60mあったが、対岸に離着陸する戦闘機の邪魔になるからと、太平洋戦争が始まった昭和16年、軍の命令を受け地上32mの部分で切断された。戦後に継ぎ足されて高さを取り戻したが、切断位置はくびれとなって残った。

かっては加古川の土手から、対岸の飛行場を飛び立つ戦闘機が眺められた。「戦闘機は砂ぼこりを上げて川岸沿いに北へ滑走し、手が届きそうな低空で頭上を飛び越えていきました」と、高砂市にお住まいの上谷昭夫氏は語る。

「旧陸軍・加古川飛行場」の記憶(3)

●中12回の大先輩・中崎日出男さまから、お便りをお寄せ戴きました。以下 ご書状を抜粋して紹介いたします。尚 先輩のご了解で実名での紹介とさせて頂きました。

「私は中学12回生で、昭和13年に4年生から陸士に進み、昭和17年3月陸軍航空士官学校を卒業して軍務に就き終戦に至りました。

中学在学中、飛行第13聯隊長を実家(泊神社のとなり)の離れでお世話しておりました。聯隊の発足時は95式戦闘機で、陸士に入った時は97式になっていました。

太平洋戦争が始まった時点では、第13戦隊(改編)は大正飛行場(八尾)に転開し尾上飛行場には飛行第246戦隊が駐在しておりました。

陸軍の施設として他に尾上と浜の宮に航空通信学校の分校があり、加古中の正面の国道筋には憲兵隊があったのを思い出します。

木村神社の森に退避されたのは95式練習機で、尾上には実戦機はなかったと思われます。稲屋から宮川の橋を補強して、人力で押して夜中に移動したようです。

終戦の翌々日の昭和20年8月17日、九州から水戸へ復帰の途中に尾上飛行場に着陸、離陸しました。これがおそらく尾上飛行場での最後の飛行機ではないかと思います。」

と結んでありました。 写真は尾上飛行場から編隊離陸する95式戦闘機、上谷氏ご提供。

●中18回の大先輩・尼子宗二氏(三木出身・最後の海兵78期生)からも、これに関連して日本海軍、陸軍の制式軍用機の資料なども頂戴しました。又 別稿でご紹介いたします。

伺ったエピソードでは、元巨人軍の青田昇氏(三木出身・滝川)が昭和19年2月から、尾上飛行場に乙幹(伍長)で軍務に就かれていたそうです。

●高1けたの女性からも「私も土手で飛行機を押しました」と届きました。米田ご出身の方で当時国民学校3年だったそうです。「小さな女の子でも見たらお手伝いする、そんな時代っだのです」と。たしか銃後の護りという言葉がありました。

■スタッフ注:旧制中学大先輩から、大変に貴重なお話を頂戴し感謝いたしております。風化しつつある郷土の歴史、その1ページです。しかし 当時小学生だった女性のお話には驚きました。

加古川の近代建築物(3)

「あかがね御殿」

明治から昭和にかけて加古川市を代表する肥料メーカー・多木製肥所(現多木化学)の創業者・多木久米次郎氏が、迎賓館として建築。昭和8年(1933年)に完成した4階建ての洋館です。正式名称は「多木浜洋館」です。

外壁や屋根に銅板を張り巡らせた特異ともいえる贅沢な造りから「あかがね御殿」と呼ばれるようになり、平成14年(2002年)にはその歴史的な価値から国の登録有形文化財となりました。
別府港近くの地に、その重厚感あふれる威容を放っております。

「旧陸軍・加古川飛行場」の記憶(2)

早速、加古中生徒さんだった先輩から当時(戦争中)の思い出が寄せられました。

● 昭和20年6月、確かに飛行機を押しました。現在の宝殿中学(日の丸牧場)の辺り、通称”がんまく”に隠されていた、絹張り翼、木製プロペラの複葉機を約10人がかりで加古川の堤防まで押し上げ、尾翼を前にして土手道を相生橋まで押して行きましたが、そこで橋の欄干に翼が引っ掛ってしまいました。放課後からかかり、夜中に雨に濡れながら寺家町の自宅に帰りました。

写真は95式戦闘機 キー10(川崎航空機製)。飛行場開隊時に配置されていた。

●昭和19年12月7日、尾上飛行場で偽装網をわらで編み上げました。翌12月8日は開戦日で敵機の来襲があるとの思いこみでした。作業が終わってから駆け足で加古川国民学校に戻ってきました。(今の小学校6年生でした)

尾上・池田の浜一帯には、砂浜に対空機関銃が並んでいました。

●昭和20年7月23日、日本毛織加古川工場へ来襲した艦載機コルセアの機銃掃射がありました。工場正門(今のパークタウン)から国道2号線への道路で、民家がロケット弾による被害を受けお一人が亡くなられました。

■スタッフ注:実際に体験された先輩の生々しいお話です。確かに池田の浜に貝拾いに行った時、赤さびた機関銃が打ち捨てられていたのを覚えています。

明石と姫路はB29の爆撃を受け多くの方が亡くなられましたが、加古川はこの機銃掃射だけでした。コルセア(corsair):ヴォート・チャンス社製F4U。

「旧陸軍・加古川飛行場」の記憶(1)

昔、加古川に飛行場があったのを、皆さん、ごぞんじでしょうか。旧加古郡尾上村池田にあった通称・尾上飛行場です。写真は97式戦闘機(キー27 中島航空機製)。

昭和12年(1937年)に関西の防空の要として建設され、500~1700mの滑走路が5本ありました。この飛行場は戦闘機実戦部隊(飛行第十三戦隊)の航空基地として昭和13年3月に発足しました。今 跡地は工場などになっていて、その面影を偲ぶものはありません。

旧加古郡野口村水足にあった高射砲隊(現在はハリマ化成)や神野弾薬庫(現在は加古川刑務所)と結ぶ道(現在の藤原製作所前の道)が高射砲道と呼ばれていた所以です。太平洋戦争末期には、特攻隊の中継基地としてここから多くの若者が九州方面に向けて、帰らぬ出撃に飛び立ちました。

高砂市曽根町ご在住の「加古川飛行場を記録する会・代表上谷昭夫氏」から、当時の残された写真や記録を提供戴きました。ご了解を得、順次ご紹介して参ります。歴史に刻まれたふるさとの記憶に思いをいたしてください。

■スタッフ注:まだ国民学校生徒だった子供のころ、木村神社などに退避されていた飛行機をよく見に行ったものです。防弾ガラスの匂いがドロップによく似ていたのを思い出します。この移動はなんと人力でやっていたのですね。旧制中学の大先輩達は勤労奉仕で駆り出されていました。上谷氏も子供のころ、加古川の土手道でこの搬送の様子を目撃されたそうです。

神野には旧陸軍第106連隊の兵舎があり(山手中学のあたり)、三木にも飛行場(第六錬成飛行隊)がありました。

加古川の近代建築物(2)

旧加古川町の「加古川公会堂」として、昭和10年(1935年)に竣工しました。講演会や演劇、様々な催し物が開催されました。NHKのど自慢などもありました。筆者(1937年生)などはここで成人式の式典があったのを記憶しております。

鉄筋コンクリート造り3階建の各窓にはアーチ窓があり、正面入り口の大アーチ窓のアールデコ風ステンドグラスが大きな特徴となっており、内部から見ると色鮮やかなステンドグラスを見ることができます。近年まで旧加古川町役場や加古川小学校校舎が同時期の建物として近辺に3点セットで威容を誇っていましたが、今ではこの建物だけが残り重厚感あふれる佇まいを見せています。

現在は加古川市中央図書館として現役活躍中。

加古川の近代建築物(1)


加古川は古くから交通の要衝として栄え、東播磨の工業・商業の中心地として発展してきました。今回から 市内各所に点在しているノスタルジックな近代建築をご紹介していきましょう。

レンガ造りの建物が多数残る「ニッケ加古川工場・印南工場」
加古川の流れを挟んで、東に加古川工場、西に印南工場があります。東播磨はかって日本でも有数の織物生産地でした。その中でも代表的な企業・日本毛織。明治32年(1899年)操業の加古川工場、大正9年(1920年)操業の印南工場の広大な敷地内にはイギリスからの輸入レンガによる工場棟、倉庫群が多数ありました。現在でもかなり残っており今でも使われています。かっての6番倉庫は「カラオケレンガ館」として改装され、レンガ外壁に触れることができます。

高29回生・HP「加古川探訪」から引用。ご了解は頂いております。

「加古川市制 60周年」 記念式典

6月19日 加古川市民会館で開かれました。司会役はTBS・杉尾秀哉氏(高28回)が務め、樽本庄一市長(高11回)から、「これまで市政進展を支えてくれた先達に感謝し、市功労者など皆さんの功績に敬意を表します」とあいさつ。又 住田裕子氏(高22回)など加古川ゆかりの著名人らからビデオメッセージが寄せられ「70周年、80周年に向けてさらなる発展を」と、加古川市の”還暦”を祝いました。

加古川市は1950年(昭和25年)6月15日に加古川、神野、尾上、平岡、野口の5町村が合併し、その後も加古郡(八幡、別府)、印南郡(上荘、平荘、東神吉、西神吉、東志方、志方、西志方、米田)など周辺町村と合併を進め、県内一の大河、加古川の清流を東西に挟み現在の市人口は約27万人と東播地域の中核都市に発展しています。この姿は市章(川を中心に丸く発展する)に象徴されています。当時 市内の高校は3校だけでしたが現在では東、西、南、北、農、工と計6校になっています。

写真左は杉尾氏。神戸新聞・東播磨版記事から抜粋しました。

「はりま地酒文化を育む会」 お花見会

4月3日 さくら見頃の鹿嶋殿で開かれました。100名近くの大盛況です。
会場には、地元4社 井澤本家「倭小槌」、キング醸造「播州錦」、西谷酒造「惣盛」、岡田本家「盛典」に加え、京都の「伊根満開」、山形の「出羽桜」。6銘酒が揃い踏みで盛り上がりました。

会員の皆さんは、東播地域の酒造りの伝統継承を目指している面々。地産地消に取り組んで活発な活動を展開されていらっしゃいます。この日のゲストは”加古川まちおこし歌手・春川うらら さん”。「平成加古川音頭」を始め、持ち歌メドレーで会場を沸かせました。

ご出席の方々 地元4社提供の銘酒40本が抽選で持ち帰りとあって、上機嫌でのほろ酔い会であったとか。

スタッフ注:当会は会長(高11回)始め、清流会諸氏が多数参加されています。司会役も清流会前副会長氏(高14回)です。会場受け付けの華麗な諸嬢の中にもお顔が・・・・。