日経トレンディー8月号の「キーパーソンに聞く」に登場。
NTTドコモ・開発センター所長としてLTEの標準化やその技術開発に大きく携わる尾上氏は、更に先を見据えた技術開発を熱く語る。
競争が一層激しくなる今後、より強力なネットワークを作り上げていきたいと意欲を見せる。
詳細は同誌をご覧ください。
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日経トレンディー8月号の「キーパーソンに聞く」に登場。 NTTドコモ・開発センター所長としてLTEの標準化やその技術開発に大きく携わる尾上氏は、更に先を見据えた技術開発を熱く語る。 競争が一層激しくなる今後、より強力なネットワークを作り上げていきたいと意欲を見せる。 詳細は同誌をご覧ください。
マドンナひろ子 彼女の早世を惜しみ、加古川東高・高16回の同級生たちの想いが綴られている。 数多くのエピソードの中から一つ二つを抜粋でご紹介します。
●たこ先生 卒業生の中でも原田峻一先生のお名前を覚えている人はほとんどいない。なのに『たこさん』と言うと、「ああ、あの美術の先生」と言うくらいよく知られているのだ。当時の東高では武道では「柔道」か「剣道」を、芸術では「音楽」「書道」か「美術」を選択することになっていた。ひろ子は、少し迷ったが「美術」を選んだ。それが彼女の人生を決定つけることになるとは思いもよらなかっただろう。 『たこさん』は素晴らしい芸術家だった。そして多くの生徒を有名美大に進学させた先生でもあった。 美術の時間に彼女たちは、中庭でスケッチしていた。その様子を、男子生徒たちが教室の窓から一斉に身を乗り出して見ていた。「おい、浜中出身のスターだよ。あんまり眩しくて、近寄れないぜ」 ・・・・たこ先生が、中山ひろ子さんに対してあまり熱心に指導するものだから、『ひろ子命』の野郎どもが抗議行動を起こした。Z君を先頭に、数人の生徒が美術室になだれこんだ。「たこさん、いや原田先生。これ以上中山ひろ子に近づかないでください。もし、彼女に手を出したら、先生の排斥運動をしますから。いいですね・・・私たちは真剣で、必死の覚悟でお話ししているのです」。 ●フォークダンス 東高の運動会のメインイベントは、最後にある「フォークダンス」だった。この時だけは大っぴらに男女が手をつないで踊れるのだ。女子生徒が圧倒的に少ないから、高1の男子生徒同士が手をつないでオクラホマ・ミクサーやコロブチカを不器用に踊る姿は滑稽以外の何ものでもなかった。 この時の話題は、誰が「中山ひろ子」と手をつなげるかでもちきりだった。三曲のダンスで何回パートナーを交換して目的を達成できる確率を高等数学を駆使して計算した人間がいる。彼は「隠れひろ子フアン」で、大阪大学の電子工学科を卒業して後に富士通FACOMのソフト開発で本社の中枢を担ったK君だ。そんなお堅い人が、筆者に対して「ひろ子抄を早く書き上げて、一番先に私に見せるように」と、命じたのです。 運動会当日、待ちに待ったフォークダンスが近づいてきた。水道で手の汚れを洗い清めてその時を待った。後少し、後五人・後三人・後一人という時にプツリと曲が終ってしまった。その悔しさは、一億円の宝くじの一桁違い以上の思いだったかも知れない。 その他色々と、マドンナをむざむざと異国の男性に奪われた無念さが溢れています(笑)。 ■スタッフ注:この「ひろ子抄」と「遺作画集」は、文中にも登場している栗山弘之氏のご好意で清流会東京支部に寄贈されております。貸し出しいたします。事務局までどうぞ。 中山ひろ子さん(1946~2010)の早世を惜しんだ東高同級生らが、画集を約1年かけて編集。銅版画を中心に約40点を納めた。母親の弁恵(のぶえ)さん(89歳)も、「多くの人の協力でいい画集ができました。本人も喜んでいるはず」と話す。 中山さんは加古川市浜の宮中、加古川東高から京都市立美術大デザイン科を卒業。結婚後、オーストラリアに移住した。40代で乳がんが見つかるなどしながらも、銅版画や陶芸、マ-ブリング (墨流し)など多彩な創作を展開。日本の美の紹介にも力を注いだ。 2008年、治療のため帰国し、母の元で過ごしたが、10年5月20日、64歳で亡くなった。 高16回生同級生たちが開いた「遺作原画展」に来日した長女ナミさん(30歳)は「母がすぐれた作品を制作していたのだと、改めて感じました」と話す。 同級生たちの暖かい友情に見送られた、中山さんのご冥福をいのります。 写真は久留宮康之氏(前列中央)、神田寿文氏(後列左から二人目)、三澤(本岡)紀子さん(後列右端)の同級生・高16回の皆さん。 画集のお問い合わせは、久留宮康之氏 079-492-0582 まで。
快挙というべきか、とんでもない同窓生がいる。稲美町在住の久留宮氏。 幼いころから地元の高御位山や城山に親しんでいた。百名山を初めて登ったのは、東高生だった昭和37年の阿蘇山。以後、大学や教員時代に数々の山を登った。しかし、平成7年に45歳で直腸がんが見つかり、術後は人工肛門を装着する身になり登山から遠ざかった。 再び登り始めたのは平成12年。その当時で27山を踏破していたが、1番目の利尻山から番号順で100山を目指すことにした。平成19年7月、利尻山の頂上に立った。以後、月間1~10山のペースで登山を重ねた。宮之浦岳には昨年7月17日、強い風雨の中、山頂に到着した。 今度は逆の順で100山を目指すことにし、すでに開始している。登山を再開してからの健康は良好、「百名山は、生命の源泉になっている」と語る。 石鎚山、妙高、火打山、高妻山、木曽駒などに同行し、そして最後に残った筑波山に立ち会った友人の栗山弘之氏(高16回・横須賀市在住)の言。「マッタク トンデモナイヤツです」と。 ■スタッフ注:この栗山氏(富士通OB)も、NYマラソン始め国内外で数多くのフルマラソンを走破した猛者なのです。その方が言うのですから「本当にトンデモナイ」のでしょう(笑)。
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