過去のニュース

「ごくらくやの本」・大西淳滋郎氏(高29回)

大西氏が経営する企業の数々のシリーズ広告。

このほど、そこに「伝えたい日本の心」・日本に伝わる四季折々の伝統行事や風習を食や地域を切り口に加えた、冊子を刊行されました。

そこには我々がともすれば忘れがちな日本の四季が感じられます。1月・大寒から12月・柚子まで。その一部をご紹介します。

5月(皐月) 茶摘み 2月4日の立春から数えて88日目に当たる5月2日が八十八夜です。「夏も近づく八十八夜・・・」と文部省唱歌『茶摘み』に歌われている通り、野も山も新緑に覆われるこの時期は茶摘みが盛んに行われます。4月下旬から5月下旬にかけて、その年最初に萌え出た新芽でつくられる一番茶を新茶といい、さわやかな香りと甘みが楽しめます。

夏のめん料理といえば、そうめん。竜野市を中心とする播磨地域は手延べそうめんの産地として有名で、斑鳩寺(太子町)の約600年前の古文書には、すでに”サウメン”の記述が見られます。良質の小麦、揖保川などの清らかな水、赤穂の塩を原料に生地をつくり、延ばしと熟成を繰り返した後、門干し工程で均一に乾燥させます。伝統の製法を守ることで、腰があって舌触りのよい製品が生まれるのです。

■スタッフ注:大西氏は慶応年間創業の老舗 ”ごくらくや仏壇店” を守り、故郷で活躍されています。同窓生のご奮闘をいのります。

尚 この冊子は支部事務局にあります。ご希望の方には貸出致します。ご連絡ください。

 

 

 

 

 

中山ひろ子さん(高16回)・「遺作画集」

母堂を囲んで、画集編集委員の諸氏

中山ひろ子さん(1946~2010)の早世を惜しんだ東高同級生らが、画集を約1年かけて編集。銅版画を中心に約40点を納めた。母親の弁恵(のぶえ)さん(89歳)も、「多くの人の協力でいい画集ができました。本人も喜んでいるはず」と話す。

中山さんは加古川市浜の宮中、加古川東高から京都市立美術大デザイン科を卒業。結婚後、オーストラリアに移住した。40代で乳がんが見つかるなどしながらも、銅版画や陶芸、マ-ブリング (墨流し)など多彩な創作を展開。日本の美の紹介にも力を注いだ。

2008年、治療のため帰国し、母の元で過ごしたが、10年5月20日、64歳で亡くなった。

高16回生同級生たちが開いた「遺作原画展」に来日した長女ナミさん(30歳)は「母がすぐれた作品を制作していたのだと、改めて感じました」と話す。

同級生たちの暖かい友情に見送られた、中山さんのご冥福をいのります。

写真は久留宮康之氏(前列中央)、神田寿文氏(後列左から二人目)、三澤(本岡)紀子さん(後列右端)の同級生・高16回の皆さん。

画集のお問い合わせは、久留宮康之氏 079-492-0582 まで。

 

「昭和の戦争とおじいちゃん」(2) 竹内 隆氏(中21回)

旧制加古川中学校正門

以下 抜粋でご紹介していきます。

-郷土力士-

風呂屋のいたみのひどい土塀に汐の海と増位山の星取表が貼ってあります。

双葉山が大好きでした。相撲が強い上に格好がだんぜん良かったからです。次に好きなのは照国と羽黒山でした。風呂屋の星取表を見るようになって、的形の汐の海や白浜の増位山が、はやくそういう相撲取りと勝負をするような地位に上がったらいいのにと思うようになりました。

-中学受験-

六年生の二学期が残り少なくなっているときのことです。先生が突然「お前、明石中学を受けたらどうか」と言いました。思いもしなかった話だったので驚きました。年が明け三学期になると、加古川中学校を受験させてもらえることになっていました。いよいよ受験日になって、加古川中学校へ出かけました。大きな体育館が控室でした。天井からサーカスの空中ブランコのような長い吊り輪が下がっていました。入学試験の結果、加古川中学校入学が決まりました。

先生に進学祝いのセーラー万年筆をいただきました。胸ポケットの万年筆は、学生の目印で、勲章のようにほこらしいものです。帰宅すると、早速、万年筆を胸ポケットにさして、母の鏡台の前に立ってみました。

-県立加古川中学校入学-

昭和18年の春、中学校へ進学しました。中学生の服装は長ズボンに変わり兵隊さんと同じようにゲートルを巻きます。上着には五つの金属ボタン、襟には学年章、靴は編上げの革靴、鞄は肩掛け鞄、そして、帽子には、中の字のまん中に加古の文字を丸く納めた校章が付いています。

校長先生が、「諸君は「質実剛健」「自治創造」を心得て学業に精励するように」と式辞を述べられました。生徒が互いに先生の事をあだ名で話題にしているのは驚きでした。もちろんすぐにすべての先生のあだ名を覚えました。美術の先生は頭が見事に禿げあがっているのでタコと呼ばれています。ほとんどは先輩から引き継がれているものです。

美術・原田タコ先生

 

 

 

 

「中山ひろ子さん(高16回)・遺作原画展」

オーストラリア(タスマニア在住)で芸術活動を続けていた中山さんの原画展が加古川市民ギャラリーで開かれた(5月8日~13日)。

中山さんは浜の宮中学→東高→京都市立美大と進まれ、銅版画や陶芸、マーブリング(墨流し)などの創作で有名な方。

豪州人と結婚、オーストラリアに移住し、2008年、病気治療のため帰国したが、2010年5月に母のもとで亡くなられた。

早世を惜しんだ同級生たちが遺作展を開くなどしていた。

原画展では遺作40点が展示され創作の幅広さを物語っている。

オーストラリア在住の長女ナミさんも来日、ひろ子さんの母弁恵(のぶえ・89歳)さんと共に母の作品を鑑賞した。

 

 

 

 

 

 

2013年5月9日・神戸新聞記事から

 

「日本百名山」・番号順に制覇!久留宮康之氏(高16回)

 

久留宮康之氏・神戸新聞記事(H24年8月7日)より

快挙というべきか、とんでもない同窓生がいる。稲美町在住の久留宮氏。

幼いころから地元の高御位山や城山に親しんでいた。百名山を初めて登ったのは、東高生だった昭和37年の阿蘇山。以後、大学や教員時代に数々の山を登った。しかし、平成7年に45歳で直腸がんが見つかり、術後は人工肛門を装着する身になり登山から遠ざかった。

再び登り始めたのは平成12年。その当時で27山を踏破していたが、1番目の利尻山から番号順で100山を目指すことにした。平成19年7月、利尻山の頂上に立った。以後、月間1~10山のペースで登山を重ねた。宮之浦岳には昨年7月17日、強い風雨の中、山頂に到着した。

今度は逆の順で100山を目指すことにし、すでに開始している。登山を再開してからの健康は良好、「百名山は、生命の源泉になっている」と語る。

石鎚山、妙高、火打山、高妻山、木曽駒などに同行し、そして最後に残った筑波山に立ち会った友人の栗山弘之氏(高16回・横須賀市在住)の言。「マッタク トンデモナイヤツです」と。

■スタッフ注:この栗山氏(富士通OB)も、NYマラソン始め国内外で数多くのフルマラソンを走破した猛者なのです。その方が言うのですから「本当にトンデモナイ」のでしょう(笑)。

 

「昭和の戦争とおじいちゃん」(1) 竹内 隆氏(中21回)

昨年出版された竹内 隆氏のご本です。的形国民学校→旧制加古川中学へ。昭和23年に卒業、兵庫師範学校を経て明石市を中心に教職を歩まれました。

少年時代に太平洋戦争を経験した著者が、戦中戦後の記録をまとめたものである。現代の子供たちに、空襲や学徒動員などを語りかけるスタイルで記録が綴られている。著者の実体験が具体的、かつ丁寧に語られており、読む者を当時の世界に引き込んでいく。 著書紹介より

戦時中の中学生生活、高砂線での通学など郷土の情景が身近に描かれています。最後の旧制中学生世代のお話しを、次回から順次ご紹介して参ります。

■スタッフ注:書店では販売していません。お問い合わせは㈱テクノルサポートシステムまで。

113-0033 東京都文京区本郷3-40-11 03-3816-2254

 

加古川線開業100年の軌跡(2)

「加古川線開業100年の軌跡」(1)

地元紙・神戸新聞連載記事を、抜粋でご紹介します。

平成25年4月9日 神戸新聞

広瀬敏郎氏(高18回生) 2013・「パリ祭」

今年も又、巴里祭の季節。


エデイット・ピアフ没後50年に当たり、彼女へのオマージュとして大々的に華々しく繰り広げると、広瀬氏は準備に大わらは。イヴ・モンタンを演じるそうです。

そして今年も大トリに。皆さん 機会がございましたらどうぞ。

7月13日(土) 7月14日(日) NHKホール 「第51回パリ祭」

7月15日(月) 小田原市民会館 「小田原パリ祭」

7月19日(金) 神戸文化ホール 「神戸パリ祭」

7月20日(土) 岡山シンフォニーホール 「岡山パリ祭」

パリの休日

 

 

 

 

ボストン爆弾テロ事件、母校にも影響。

母校にも影響が及んでいるとは・・・。

4月18日 日経新聞記事(関西)より