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被災地・同窓生から、お便り(16)

仙台市若林区位置図

●6月15日 仙台市若林区 高22回 拝復 加古川東同窓会東京支部の皆さま、益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。震災に際し心こもった激励のお便り・懐かしい最中ありがとうございました。お礼・ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。お陰さまで家族とも皆、元気です。

震災からはや三ヶ月経過しましたが、震災の後遺症は深く宮城の被災地はまだまだ・・・心が何となく晴なくて、弾けるように笑えない・喜べない自分が今も・・・。

女房の生まれた仙台に居を構え二十三年、今は定年退職後、仙台市内で勤務いたしております。地震発生時は被災地の街中で信号機が止まり渋滞、もう少しで津波に飲み込まれる所でした。家は津波が1㌔㍍手前まで迫っていましたが、家近くの俗称「波よけ神社」のお陰で、津波に襲われなくて・・・・。

大学卒業以来慣れ親しんだ宮城の港町の惨い光景に胸が痛くなります。生かされているいることに感謝し東北を今まで以上に愛し続けます。有難うございました。敬白

被災地・同窓生から、お便り(15)

●6月12日 茨城県神栖市 高35回 お礼が遅れまして申し訳ありません。

改めて、加古川を思い出させる心遣いに深く感謝致します。神栖市は、インフラ、工場も震災前に戻り、ほぼ落ち着きました。当時の状況は、震災翌日に電気が復旧しましたが、上水道は、復旧に約一カ月半かかり、その間は給水所通いでした。。しかしながら、この地震で得た事が3点あります。

1.廻りの灯りが無いと、街中でも星がよく見える事。震災直後の夜、10キロの通勤路を初めて歩いて判りました。

2.初めて家内が、私の酒飲みについてついて感謝してくれた事。愛飲する4㍑焼酎の空瓶が、給水容器に一番適していました。

3.『絆』 の重要性を再認識した事。会話をした事のない隣人や、地域のコミニュティー、この清流会のように、普段見えない絆が沢山ある事に気付きその事を糧として自分自身を奮い立たせる事が出来ました。

まだ日本全体は、復興の途中ですが、皆さまもご健康に注意くださいますようご自愛ください。敬具

被災地・同窓生から、お便り(14)

岩手県大槌町役場 町長は津波で遭難された。

~(13)からつづく

本来なら復興に向けて着実に進み始める時期になっていますが、被災地も二分化しており、復興に向けて前向きに考えてられる所と、まだその段階に至らない所です。特に、役場自身が津波の被害をまともに受けたのかどうかが大きな分かれ目で、役場の機能が一時的にでも停止してしまった所は、同じ被害でも混乱が続く状況です。ただ、遺体も見つかっていないのにとの住民感情もありますが、それでも復興に向けて歩んでいかないといけないということは、訪問先のどの自治体でも感じられるようになっています。

私の所掌である通信・放送の分野では、震災・津波で物理的に破壊されたところもありますが、全域停電となったことから、しばらくはバッテリー駆動で何とかやりくりしていたものが止まっていったのも多かった状況です。4月末には概ね復旧状態となっています。

今後は応急対策を恒久化していただくと共に国の支援を含めて、津浪等で失われた施設の再建を急ぐところです。また、防災無線も概ね機能したのですが、最初の津波で壊されてしまうと後は使えない状況となっています。こういう状況でもあり、様々な無線機を大量に持ち込み、國、自治体に貸与すると共に、災害用FMを認めて情報伝達手段として活用されています。終

www.soumu.go.jp/soutsu/touhoku/

被災地同窓生から、お便り(13)

仙台空港 3月11日16:01

~(12)よりつづく

仙台市の中心部でも、通信、電気、水道、ガスが全て止まり、頼りになるのはラジオだけで最初の3日間の食料は非常食と職員が持ち込んでくれる差し入れのみ。

幸い私のオフィスは非常用電源で業務に必要な電気はついていたこと、通信の拠点なので固定回線は生きていましたが、電気、水道が戻るのに数日かかり、最後にガスが出るようになったのはほぼ1ヶ月後でした。その間、風呂には入れず、お店もほとんど開いていませんでした。

尚、誤解のないように申し上げると、中心部では物理的に通信が途絶したというよりは、輻輳による通話制御のためであり、その後、停電が長時間になったのでバッテリー切れを起こした中継局も出てきた事情によります。

仙台市の海岸線側も含めて被災地では、それぞれ大変な被害を被っておりおり、震災後2ケ月を経た現在でも、未だに行方不明者が多数おられ、がれきも多く残っている状況です。壊滅的被害を受けた地はもちろんのこと、その周辺でも未だに電気、通信が十分に届かないところもあります。

つづく~

後輩から被災地の先輩に届け。ハリマ産業新聞記事

(C)ハリマ産業新聞社

同紙の5月25日号記事を、ご紹介します。(記事をクリックしてください) 併せてHPの「被災地・同窓生の方からのお便り、 1~16」もご覧ください。

将棋:船江恒平四段(高58回) 「加古川青流戦」緒戦快勝

(C)ハリマ産業新聞社

今年から加古川市などの主催で始まった「加古川青流戦」、船江四段(高58回)が順調なスタートを切った。ハリマ産業新聞・5月25日号記事からご紹介。(記事をクリックしてください)

3・11被災地支援・加古川市広報誌から

広報かこがわ・6月号

加古川市では被災地への応援職員の派遣や、支援物資の輸送など復興支援活動を行っています。

福島県相馬市とは、清流会のご縁などもあって震災直後に素早い支援活動を行いました。下記 相馬市役所勤務の同窓生からのお便りも、再度ご覧ください。

<3月27日・小山健一氏(高48回)のコメント>

6月7日は「母校創立記念日」

写真は現在のプール方面から、撮影されたものです。

昭和3年(1928年)6月7日に、全学年・五学年が揃い、当日を兵庫県立加古川中学校の創立記念日としました。

創設は大正十三年(1924年)ですが、毎年 一学年ずつ積み重ねていきました。

母校通信「創立記念日に寄せて」に詳しい説明が記されています。

■スタッフ注:写真は、旧制中学大先輩からご提供頂きました。尚、上記説明文の中で開校式が加古川高女(現加古川西高)で行われたとあります。これは旧校舎で、現西高の場所ではありません。当時、女学校は加古川小学校の隣り、現加古川税務署の辺りにありました。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記(宮本伊織と泊神社・加古川町)

泊神社(通称・木村神社)の山門

泊(とまり)神社は加古川で歴史の古いお社です。泊の名前から、かっては海辺だったのがわかります。

江戸時代の初期、荒廃していた神社を再建したのが、高砂市米田町に生まれたと言われる宮本伊織です。

伊織は明石藩十万石小笠原家の家臣・田原貞次です。当時、明石に滞在していた宮本武蔵に認められて彼の養子となり、名を宮本伊織貞次と改めました。吉川英治の小説でもご記憶がお有りだと思います。寛永九年(1632年)に小倉に移封された、小笠原家の筆頭家老にまでなっています。

伊織はもともと泊神社の氏子であり、小倉にあっても故郷の氏神の荒廃に心を痛め、資金を提供して一族でこれを再建したのでした。

再建から約三百六十年の風雪に耐えてきた本殿や神楽殿、江戸時代末期に建築された能舞台などの建物は、平成二十年に国の登録有形文化財に選定され、同年九月に加古川能が開催されました。宮本武蔵、伊織父子と加古川のご縁に思いをはせてください。

■スタッフ注:「広報かこがわ・六月号」から抜粋紹介しました。岩坂純一郎氏(高20回)が担当執筆されています。詳細本文は、公式HPでごらんください。

筆者などは、通称の木村神社で親しんでいました。秋の祭礼には”赤”(天狗)が大暴れして逃げまわったものです。加古川中学への通学路にもなっていて、前の宮川(泊川)でよく”じゃこ釣り”や”菱採り”などしていました。戦時中には境内に尾上飛行場の戦闘機が退避されていて、兵隊さんが番をしていたのも思い出されます。

被災地・同窓生から、お便り(12)

仙台市青葉区本町

●6月2日 仙台市青葉区・高28回 ご連絡、お見舞いをいただきありがとうございます。母校生徒のみなさんからの励まし、大変ありがとうございます。また、ニシカワ食品の”みかさ”もおいしくいただきました。なかなか連絡できないままで、本日まで大変失礼いたしました事をお詫び申し上げます。

個人的には被害はないと言えるほどのものですが、職場でも津波で自宅が全壊となった者もいるなど、大きな被害が出ています。ただ震災のあった時間が平日の昼間であったことが幸いして、職員130名は無事でした。職場は青葉区の官庁街にあり震度6強の地震直後に、いったん全員建物から退避し雪のちらつく中での点呼、そして簡単な建物の安全点検の後、最小限待機として解散となり職員は自宅に向かいました。

職場内は、様々な本、資料などが散乱しましたが、宮城沖地震に備えて書庫等を固定化していたので、ほとんど倒れずに済んだことと、建物が比較的堅牢であったことから、エレベーターや一部の天井を除けばそれ程の被害は出ておりません。その後、電気、水道、ガス、が通じない生活がしばらく続きました。

一方、地震直後に東北全域が停電し、通信も携帯および固定電話ともども、ほぼ断絶しましたので、職員の多くはワンセグ、ラジオ等で津波の襲来を知ったところです。何時間も歩いて自宅に向かったものの、たどり着けずに避難所もしくは知り合い宅にに宿泊する者が続出しました。被災地では通信状況が極度に悪化していましたので、連絡が取れないまま1週間近く音信不通のものが数多く出ました。

多くの被災地の人間は、何日も家族、親族や知り合いを求めて、瓦礫の中を避難所を探し求める状況となりました。ところがガソリン不足で、移動手段にも事欠く状況でした。そしてすべての物流も止まっていました。つづく~