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首都機能移転 かって「加古川遷都論」があった。

赤部分が焼失した

(1)テロで東京が狙われたり、大規模地震が来る前に国家政府三権(立法府・行政府・司法府)の全部又は一部を、首都から他の都市に移す議論があります。

平成6年(1994年)に「国会等の移転に関する法律」が施行されている。現在の候補地は栃木・福島、岐阜・愛知、三重・畿央の3ヵ所ですが、先ず福島は脱落でしょう。今回の大災害を機に、停滞中の移転審議も論議を再開されるかもしれません。

首都・加古川(幻の遷都論)

その昔、加古川に遷都する案が二度ありました。

一度目は平清盛(1118~1181)が大輪田の泊(神戸)を計画した際にヒンターランド(背景地)の面積が狭かったため、印南野平野を考えたようです。ただ、江戸時代の新田開発がすすむまでのこの地域は水まわりがよくなかったので候補から外れたようです。もっとも、その後すぐに平家が滅亡しましたから、なおさら実現しなかったと思います。

二度目は関東大震災のあとです。

大正12年(1923年)9月1日・午前11時58分。東京を中心に未曾有の大震災が発生。死者・行方不明者10万5千人の大惨事でした。190万人が被災。家屋全壊10万9千棟。全焼21万2千棟。当時の東京都心部の人口が250万人。現在は23区の昼間人口1,123万人、夜間人口835万人ですから、もし今度あればとんでもない事になります。

いま、震災ボランティアが盛んですが、ほかの地域からボランティアの手が差しのべられるのは、この関東大震災が最初となります。真っ先に横浜港に救援物資を送ったのは大阪市だったそうです。

この大震災のあと、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおき、陸軍参謀本部が直ちに遷都案を提出しました。今も昔も非常時に頼れるのは軍隊組織の存在です。「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に大将)によれば、国土防衛上の観点から加古川の地を候補地の一つにあげています。第一に災害の少ない地域であるということであったようです。

「遷都(八幡和郎著)」(中公新書)では、(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・・」この遷都論は、震災12日目の9月12日に「遷都せず」の詔書が出て沙汰やみになりましたが、この計画がもし実現していたら、日本の歴史も大きく変わっていたことでしょう。

災害が少なく、水量が安定している河川を持つ播磨は、当時、魅力的な遷都候補地だったそうです。今でも加古川北部・加西・三木あたりは土地も豊富で候補地として充分のようです。山陽新幹線も浜の宮駅(加古川)を玄関口とするプランも存在するらしい。

【 If 】 いずれも実現しなかった話ですが、終戦後にあった旧陸軍・尾上飛行場の民間商業飛行場への転換話と共に、郷里にまつわる興味深いIfではあります。

■ スタッフ注:これらの資料は飯沼(後藤)博一氏(高14回)のご了解を得て、同氏の「ひろかずのブログ」を中心に引用させて頂きました。

被災地復興にパイプを!高見浩三氏(高25回)

(C) 神戸新聞社

3・11大震災後、同窓生諸氏もそのお立場、お立場で奮闘されています。皆さまご苦労さまです。

神戸新聞・経済面 4月21日記事をご紹介します。

スタッフ注:高見氏は上荘町のご出身です。

旧制中学、旧制高女。男女共学その後(1)

<折半交流前後の生徒の感想> 東高の巻(上)

遂に待望?の男女共學が實施され對面式の行われた一日以後男女記者二、三人は或は女生徒のかたまりの中へ割込み、或は男生徒の喊聲の中に入ってその聲を聞いた。以下はその記。

記「交流前に両校のどちらへ志望していましたか」

女「幼い頃からの憧れであった學校に入ってその學校で卒業したいですワ。」 男「友達と別れるより舊の學校に居りたい。」

女「好奇心からかも知れませんが中學校へ行きたい気持ちもありました。」 男「通學上の便利もありますのでこちらになってやれ々です。」

○ 一般に男女學生は共に居りたかったらしい。しかし女生徒の一經は男生徒の學校へ憧れて居た様だ。

記「貴女はこちらに来た第一印象は此の學校をどう感じましたか。」

女「何だかおかしな國へでも来た様な感じがします。」 女「土足のまゝ上がって勉強する事と男生徒のやかましいことに驚きました。」 女「校庭は案外美しく花などが植えてあり池等あって感じが女學校より良ろしい。」 女「男の方は何でもする事がてきぱきして居て良いですワ。」

○ 女生徒は厭倒的に舊加古中はきたないのに驚いたという意見が多かった。

記「東高へ来ると定った時はどんな感じでしたか。」

男「思い通りに願いが叶って嬉しいよ。」 女「何事も運命と思って居ます。こうなった上は環境に應じたいと思います。」 女「長い間居た學校を離れる時には淋しく悲しくて仕方がありませんでした。」

記「これまで東高には女生徒が入るのはほとんど無かったのですが女生徒が入って来てどんな感じがしましたか。」

男「女生徒が来てから男女共不活発になっていけない。」 男「教室で女生徒と隣り合って居ると話が出来ぬから男の者同士並べてほしい。」 男「女生徒は元気で朗らかであると思った。」 男「女生徒が時間中静かなので男生徒も自ずから静かになり、以前よりも勉強し易くなった。」 男「確かに學校がきれいになり和らげられた様な気がする。

○ 男生徒は女生徒に對して好奇心でいたらしいが今となって女生徒が入って来て恥ずかしい様子である。つづく

■ スタッフ注:昭和23年(1948年)7月1日以降の取材記事。

シーベルト WHO? シーボルトはお医者さんだし・・・

ロルフ・シーベルト(スウェーデン)

3・11以来、とんと理数系に縁のない筆者には聞きなれない単位が突如登場!日本中に猛威を揮っている。

かくてはならじと俄か勉強。お子さんに馬鹿にされぬよう、ご同輩の士に献上奉る。

● シーベルト=昔は「レム」 ● ベクレル=昔は「キューリー」 なにか懐かしい。

放射性物質から出るのが放射線。放射線を出す能力が放射能で、出すエネルギーが半分になる期間が半減期だそうな。

放射能の基準の単位として1グラムのラジウムが持つ放射能の単位を、発見者のキューリー夫妻の名前から取りました。

新しい単位の名称が必要となってウランの放射能を発見したアンリ・ベクレルの名前から取ったベクレルは放射能の量を表します。

放射線が当たった場所から人体が吸収する量、それはアルファー線やベーター線など種類によって異なります。そこで最初に使われたのがレムです。英単語(人間に吸収されるX線の量)の頭文字を並べたものです。これも人名を使うことになりました。

100レムが1シーベルトになります。スウェーデンの物理学者、ロルフ・マキシミリアン・シーベルトです。人体が吸収する放射線の単位となったのです。

なにか訳が分からなくなってしまいましたが、この人の名前、どうも日本人には好かれそうもないですね。

そう言えば、天気予報でも気圧がミリバールからヘクトパスカルに変わってます。1991年に国際単位系を使用する事が正式に決まったからだそうです。

旧制中学、旧制高女 先輩連の男女共学・騒動記(4)

抽選風景

加古女の巻(下)

抽選順位を定めるのに心臓がどきどき、一寸早過ぎはしないかと人事乍ら気がもめる。AかB若しくはCと組を分ける所に進む。前より遥かに、気持ちが引締まざるを得ない。堅くなって背丈が縮んだのか札の置場が高過ぎたか背伸びの必要な人もあり、如何な冷静家にても中の札を掻混ぜてよりとるわけには行かぬ窮屈な所だった。ここを抜けると直ぐ各自の籤が指す控室に向かう。

この中で大半の人の気を目で読みとると次のよう・・・・第三者でない私にも馬鹿らしい。例えば「どうか東でありますように」とか「Bが残留します様」等いう具合に神に願掛けをし始めるからたまらない。平素の茶目嬢がこうであるから感傷的な人達になるとすっかり元気を失い卒倒した類もあり、半数以上は全く不安の体で何處も同じ活気がない。運命の籤を引きに行った十人の代表は如何様か。

後に残った者は考える余地もなく「C」と何處からともなく聞こえる聲にすっかり詮める者が多くなった。C組では様々の音聲を発する。が然し折角一部の人が喜んだのも束の間、「Bだ」と次の放送があるから滑稽である。「A」と大きな聲、今度こそ確からしい。「どうしよう○○さんはAや」「いやあ嬉しい」と一度にどっと騒ぎ始める。一人が歓聲をあげると續いて二人、三人、嬉し、悲しと思いの儘を語るのも聞くのも面白くゼスチアを見るのが変化に富んで興味がある。希望の叶った人は躍上がらんばかりに喜んだが、運命の皮肉は何處迄も附纏って親愛なる友とえにしの綱を切られた者も少なくない。この日は深く感じて泣く人も先ずなかった。

この抽選は當日よりも寧ろ明三十日に大きな打撃となった。惜別の辞は高く低く人の心を捉え感動の中に終った。それにも増して對面式の朝、師と友を送る校庭は涙と雨がマッチして今日を限りの校歌の齊唱に一層の懐かしさと哀愁を感じた。「小夜奈良」別離の言は短かった。が短ければ短い丈に余韻は長く行く者と送る者の胸に傅わった。(記者の見た真相)終

旧制中学、旧制高女 先輩連の男女共学・騒動記(3)

抽選風景 加古女の巻(上)

私達が朝禮を行っている間に、入學考査にも似たる厳粛な抽選場が設けられ、誰が心か明日からの運命を定める殺風景なこの場所にささやかな一輪の花が揺らいでいた。先生方の御指図に従って各學級長は廊下に出で控室に胸をわくわくさせ落着かぬ風態でいる人たちに成績を加味したグループの編成の編成の連絡をとり始め、「次は私位が呼ばれる頃かしら」と人心を愈々動揺させた。

「窓から首を出してはいけない」と再三注意をされ乍ら、目の数が増し、下顎と頭上が重なりあって廊下で組を作っていらっしゃる先生の方へ真剣なというか、不安というのか、鋭い求める眼が集中して行き遂には廊下に七、八人どやどやと押出されて来る状態であった。

蒸暑い天候に焦燥を交えて物苦しい雰囲気の室内には又風變りな人も居て、お得意の播磨言葉でぺちゃくちゃと落ち着き拂ったもの、数回名を呼ばれても我事と気附かなかったのも割合数があった。始めからそわそわしていた家庭科七人連れが結局後に残り、やっと私達の番がと喜び勇んで登場した。では次にこの人達と抽選の一場を覗いてみよう。つづく

71人がつなぐ希望の歌、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」 素晴らしいメッセージCMですね。

震災直後から悩まされていた(ちょっと申し訳ないが・・・) ♪ A~C~ ♬ のCM。

4月から流れているサントリーのCMは、心にしみてジ~ンとなる。今月いっぱいだそうで残念。登場人物は総勢71人の豪華メンバー。全員ノーギャラとは凄い。全部で30種類ある。この企業のカルチャー度は高い。

サントリーチャンネル CM・動画で、まだお目に掛かってないVersion も見られる。ぜひご覧あれ。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記(光念寺の青蘿塚・加古川町)

寺家町商店街から南に入った路地に、光念寺があります。

この境内には、江戸時代に加古川に住み、松尾芭蕉の流れをくむ俳諧師とされる栗本青蘿(くりのもと せいら)の碑が建っています。元文五年(1740年)姫路藩藩士の家に生まれました。やがて加古川に草庵を構え、多くの門人が交流する場となりました。

明石の人丸山にある「蛸壺塚」はこの頃に青蘿が芭蕉の七十五回忌を記念して建てたものです。五十二歳で亡くなり光念寺に葬られました。

辞世の句「船ばたや 履(くつ)ぬぎ捨つる 水の月」が刻まれています。芭蕉を追い求めた俳人の潔い心情を詠んだ句です。

一門が活躍した時代には、加古川に風雅を求めて、九州や東北からも人が訪れたそうです。当時の加古川を風流の地にした文人の活躍を想像されるのもいかがでしょう。

「広報かこがわ・4月号」からの抜粋紹介です。詳細は公式HP・本文をご覧ください。

旧制中学、旧制高女。大先輩連の男女共学・騒動記(2)

<抽選風景> 加古中の巻(下)

次いで記者は第三校舎に高二を訪れた。人数の少ない高二では最早二分割は完了し、最後の決定、西行か残留か?

「この封筒二十枚の中には西と書いてあるのが十一枚で白紙が九枚ある。・・・・」

偉大なるXを秘めた白封筒を眼前に望月先生の辯。背後に父兄代表・學校代表・二年各組主任の方々が座を列して居られるのがモノモノしい感じだ。やがて撰ばれたAB各十名は拍手と聲授の内に勇躍その第一歩を踏み出した。左へ一封右に一封、裁断の魔人は刻々と近づく。後十枚・・・九枚・・・見送る生徒は流れ落つあせも拭わず、撰者の顔も心なしか青白く見えた。

後四枚・・・・三枚・・・・一通々々見送る先生の眼、指も無量の感慨を含んで幾らか血走っても見えた。後一枚・・・父兄が立たれた。代表の手は今こそ我々人生の悲しき一頁の思い出に筆を下さんとしているのだ、拍手に絶えられなくなった全生徒の興奮は極度に達し、叫喚と混乱は机も押し倒さんばかり。かくて一分・・・・・紛糾錯綜の内にAだ!否!Bだ!否!・・・・・遂に決定!!

A。Aだ!どっと上がった喚聲と大拍手。あぁ遂に運命の神は采配を高々と振った。斯くして此處に二十幾年自治創造を目的とし質実剛健を持って校風とした我が加古中は生木を割かれるごとく真二つに分割され、永遠にその名を清き加古の水底深く沈淪せしめたのである。

「去らば母校よ、なつかしの友よ、我等去ればとて永久に忘れる事あらず否、その薫香をして西高校に花咲かせ馥郁たる芳香を校内に充たさん、諸君!張り切って行こうぜ・・・・」

「あぁ行けや君、とこしえの友よ。我ら哀惜の念せまればとていたずらに別涙をそそぐに非ず、共に前途は遼遠なり、しかし大望は大人を作る。希望の光を認め、邁進せば万斛の陰雲又何かあらん。自由堂々闊歩せよ。」

お互いに握り合わされた腕と腕、組み合った肩と肩、万感胸に迫りて言葉なけれど誠意は明らかに相通じた。折から正午のサイレンが哀韻として全校庭を震わせ此處に歴史的行事が全くの終わりを告げたのである。

次回は加古女の巻

旧制中学、旧制高女。 大先輩連の男女共学・騒動記(1)

古い校内紙(清流新聞)を頂戴しました。当時(1948年)の先輩の方々(高4回生前後)の戸惑い、悲喜交々のご様子が描かれています。敗戦国の試練、思いもかけぬ学制の激変、戦後の波に翻弄された大先輩達の若き青春の日々を偲んでください。

一面、束縛から解放された戦後の明るさは、石坂洋次郎氏の名作「青い山脈」の世界を彷彿とさせます。原節子、池部良、杉葉子、若山セツ子、龍崎一郎、伊豆肇ってわかりますか。わかる方、筆者と世代が近いですね。(爆笑)

<抽選風景> 加古中の巻(上)

昭和二十三年六月三十日午前九時二十幾分。男女同権。教育の機會均等の美名のもと私情を超越した我が加古中は、鳴り響く控所集合のサイレンを合図に今や東西別け目の決戦の火蓋は切って落とされたのである。

校長訓示の後、選場の指定が各學年にあり、併中三年は講堂へ、新高二年は工作室前へ、新高一年は其の儘控所に其々分割され、記者は高一を観るべく先ず控所に戻った。

先生が用意の封筒を取りに職員室へ行かれた間、鐡棒にブラ下がる者、ABを口論する輩、猟犬の如く所狭しと走り廻る群童-。全くの騒々しさである。

先生が大きな抽選箱を抱えて入ってこられた時も、ソッと指揮台に吸いつく黒帽の山の中で「先生、今から紙芝居ですかあ」と大笑する暢気者も居る有様で全体として割合平然たる態度であった。・・・・・・。

「AとBに分割した後は如何なる理由があろうとも絶對に變更は許さない」・・・・後藤先生の幾らか哀感のある言葉にはさすがに六百の眸は一点に集中し個々の表情には寂寞感が浮き上がり舎中何となくシンミリとした。・・・・

次いで分割。指名され、六人グループを組んだが最後 善悪親友の別を問わず運命に翻弄され一對の相違は東西の相別れる原因となるのだった。

以下 つづく

■ 昨年11月3日記事「高4回生・アフター喜寿同窓会」にも、その辺りが触れられています。