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首都機能移転・続

「加古川遷都論」をご紹介した流れでの続編です。

わが国でも有名な遷都は、昔、日本史の授業で習いましたね。

● 710年(和銅3年) 奈良時代の藤原京から平城京へ。”なんときれいな平城京”

● 794年(延暦13年) 平安時代の長岡京(784年)から平安京へ。”鳴くようぐいす平安京”

● 1192年(建久3年) 鎌倉幕府 ”いい国つくろう鎌倉幕府”

● 1603年(慶長8年) 江戸(徳川)幕府 ”幕府でき人群れ騒ぐ江戸の町”

● 1868年(明治元年) ”一つやろうや明治維新” 実際の東京奠都は翌明治二年です。

「世界における首都移転例」

パターンとして、政権の交代による移転。領土の拡大に応じて移転。新たに計画都市を建設。政治、経済状況の変化によって移転。などがあります。

往年の例

イタリア トリノ→フィレンツェ→ローマ

アメリカ ニューヨーク→フィラデルフィア→ワシントンD.C

近年の例

ブラジル リオデジャネイロ→ブラジリア(1960年)

スリランカ コロンボ→スリジャヤワルダナプラコッテ(1985年)

統一ドイツ ボン→ベルリン(2001年完了)

ミャンマ ヤンゴン→ネピドー(2006年開始)

さて 我が国の首都機能移転論議は、終止符を打つのか。漂流を続けるのでしょうか。

首都機能移転 かって「加古川遷都論」があった。

赤部分が焼失した

(1)テロで東京が狙われたり、大規模地震が来る前に国家政府三権(立法府・行政府・司法府)の全部又は一部を、首都から他の都市に移す議論があります。

平成6年(1994年)に「国会等の移転に関する法律」が施行されている。現在の候補地は栃木・福島、岐阜・愛知、三重・畿央の3ヵ所ですが、先ず福島は脱落でしょう。今回の大災害を機に、停滞中の移転審議も論議を再開されるかもしれません。

首都・加古川(幻の遷都論)

その昔、加古川に遷都する案が二度ありました。

一度目は平清盛(1118~1181)が大輪田の泊(神戸)を計画した際にヒンターランド(背景地)の面積が狭かったため、印南野平野を考えたようです。ただ、江戸時代の新田開発がすすむまでのこの地域は水まわりがよくなかったので候補から外れたようです。もっとも、その後すぐに平家が滅亡しましたから、なおさら実現しなかったと思います。

二度目は関東大震災のあとです。

大正12年(1923年)9月1日・午前11時58分。東京を中心に未曾有の大震災が発生。死者・行方不明者10万5千人の大惨事でした。190万人が被災。家屋全壊10万9千棟。全焼21万2千棟。当時の東京都心部の人口が250万人。現在は23区の昼間人口1,123万人、夜間人口835万人ですから、もし今度あればとんでもない事になります。

いま、震災ボランティアが盛んですが、ほかの地域からボランティアの手が差しのべられるのは、この関東大震災が最初となります。真っ先に横浜港に救援物資を送ったのは大阪市だったそうです。

この大震災のあと、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおき、陸軍参謀本部が直ちに遷都案を提出しました。今も昔も非常時に頼れるのは軍隊組織の存在です。「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に大将)によれば、国土防衛上の観点から加古川の地を候補地の一つにあげています。第一に災害の少ない地域であるということであったようです。

「遷都(八幡和郎著)」(中公新書)では、(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・・」この遷都論は、震災12日目の9月12日に「遷都せず」の詔書が出て沙汰やみになりましたが、この計画がもし実現していたら、日本の歴史も大きく変わっていたことでしょう。

災害が少なく、水量が安定している河川を持つ播磨は、当時、魅力的な遷都候補地だったそうです。今でも加古川北部・加西・三木あたりは土地も豊富で候補地として充分のようです。山陽新幹線も浜の宮駅(加古川)を玄関口とするプランも存在するらしい。

【 If 】 いずれも実現しなかった話ですが、終戦後にあった旧陸軍・尾上飛行場の民間商業飛行場への転換話と共に、郷里にまつわる興味深いIfではあります。

■ スタッフ注:これらの資料は飯沼(後藤)博一氏(高14回)のご了解を得て、同氏の「ひろかずのブログ」を中心に引用させて頂きました。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記(光念寺の青蘿塚・加古川町)

寺家町商店街から南に入った路地に、光念寺があります。

この境内には、江戸時代に加古川に住み、松尾芭蕉の流れをくむ俳諧師とされる栗本青蘿(くりのもと せいら)の碑が建っています。元文五年(1740年)姫路藩藩士の家に生まれました。やがて加古川に草庵を構え、多くの門人が交流する場となりました。

明石の人丸山にある「蛸壺塚」はこの頃に青蘿が芭蕉の七十五回忌を記念して建てたものです。五十二歳で亡くなり光念寺に葬られました。

辞世の句「船ばたや 履(くつ)ぬぎ捨つる 水の月」が刻まれています。芭蕉を追い求めた俳人の潔い心情を詠んだ句です。

一門が活躍した時代には、加古川に風雅を求めて、九州や東北からも人が訪れたそうです。当時の加古川を風流の地にした文人の活躍を想像されるのもいかがでしょう。

「広報かこがわ・4月号」からの抜粋紹介です。詳細は公式HP・本文をご覧ください。

ぶらり加古川・・・ 史跡放浪記(石棺石仏・平荘町)

石の文化圏とも呼ばれる加古川市には石造文化財が豊富に残っています。なかでも石棺石仏は、現在までに国内で確認されている八割以上が加古川・加西両市に分布しています。

石棺石仏とは、古墳の中に安置されていた石製の棺が何らかの理由で地表に露出し、後世にその一部分のふた石や底石に仏像が彫られたものです。

平荘町のほか上荘・西神吉・志方町などにも石棺石仏を見ることができます。

「広報かこがわ・9月号」から抜粋紹介しました。岩坂純一郎氏(高20回)が担当執筆されました。詳細本文は、公式HPでご覧ください。

ぶらり加古川・・・ 史跡放浪記(平荘湖古墳群・平荘町)

平荘湖は、臨海部に工業用水を供給する目的で、昭和41年に県が建設した人造湖で、周囲は約5㌔あります。湖底には集落や多くの古墳が沈んでおり、渇水期には古墳の石室が姿を現すことがあります。

水没前に行われた調査では、古墳の多くは六~七世紀に築造されたもので、発見された遺物から朝鮮半島とこの地域には人的な交流があったとみなされています。

数多くの古墳が集中する平荘湖周辺は、六世紀前後には農業生産の高まりを背景に経済力豊かな豪族層が住んでいたと思われる地域です。

「広報かこがわ・6月号」からの抜粋紹介です。詳細は岩坂純一郎氏(高20回)が執筆されている公式HP・本文をご覧ください。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記 (こけ地蔵・東神吉町)

県道387号線を歩いていると道路わきに、桜と椿に囲まれて石仏があることに気づきます。

この石仏は、苔が生えているからではなく、こけている(倒れている)状態であることから「こけ地蔵」と呼ばれています。

この石仏には興味深い民話が残っています。

十世紀の中頃に陰陽師として活躍した安倍晴明のライバルに芦屋道満がいました。宮廷陰陽師の晴明に対して、道満は西神吉町岸に屋敷を持っていた民間陰陽師の代表格でした。

道満は、京都で晴明との術比べに敗れて生国播磨に流罪となり、そこで亡くなりました。彼に井戸に閉じ込められていた式神は、火の玉になって井戸を飛び出し四百年もの間、道満を探し求めたといいます。

ある夜、火の玉は、かって道満が修行の場としていた升田山古墳付近で石棺のふた石に気づき、彫られていた地蔵に体当たりしたので、地蔵は倒れてしまいました。

村人は立て直すのですが、翌朝には倒されていることの繰り返しだったため、「こけ地蔵」と呼ばれるようになったそうです。傾いた石仏の前でふるさとの民話に思いをはせるのも一興です。

「広報かこがわ・3月号」岩坂純一郎氏(高20回)ご担当欄から、抜粋紹介しました。詳細は公式HPをご覧ください。

高砂コレクション 「古き良き高砂を絵はがきに」

神戸新聞東播磨版・2月8日記事のご紹介です。高砂にゆかりの皆さま、ご家庭のアルバムから昔の写真を探してみていただけないでしょうか。思わぬお宝が出てくるかも。

ぶらり加古川・・・史跡放浪記 (平木橋・野口町)

大正4年(1915年)に完成した農業用水が流れる水路橋です。

いなみの台地の最西端にあたる野口町水足辺りは長年、農業用水の確保に苦しんでいました。その灌漑対策として山田川疎水事業に加わり、平木池を作り貯水しました。その引き込みのための水路橋です。

この橋は花崗岩のアーチ式で長さ約16㍍のアーチの上に、イギリス積みの赤い煉瓦を組み合わせて壁面が造られています。

昭和20年代以降は雑木林の中に放置されていましたが新道路計画で存在が注目され、その歴史的背景や建築物としての美しさから「近代土木遺産」として平成21年に移築復元されました。

現在は「加古川市指定文化財」となっています。「広報かこがわ・2月号」岩坂純一郎氏(高20回)ご担当欄から抜粋紹介しました。詳細は公式HP・本文をごらんください。

加古川駅前広場の道標

100年以上前の道標が加古川駅前広場の一角に佇んでいる。

「南 西国街道 播磨國 加古郡加古川驛」

「西 姫路驛」

「東 明石驛」

などと三面に刻まれた石柱である。

正確な由来は不明というが、宿場町もしくは鉄道の駅の道標として明治以前に建てられたと見られ、百年以上加古川の玄関口を見守ってきた。

時の流れ、人の動きをじっと見つめていたのでしょう。帰郷された際にご検分なされては。

ぶらり加古川・・・ 史跡放浪記(長楽寺・志方町)

標高約二百五十㍍の大藤山のふもとに「谷の地蔵さん」と親しまれている長楽寺があります。

お地藏さんは國指定重要文化財に指定されています。十四世紀中ごろの南北朝時代に作られたものです。安産祈願の地藏ともされており、参詣者が数多く見受けられます。

毎年八月二十三日の夜に長楽寺境内で開催されている地藏盆は、近隣に例を見ない形で行われ、一見の価値があります。

「広報加古川・8月号」からの抜粋紹介です。詳細は公式HPの本文をご覧ください。